

食語の心 第97回
作家 柏井壽
プロとアマの違い
長く続くコロナ禍によって、日々実感しているのは、食におけるプロとアマの違いだ。外食が制限されるなか、当然ながら家庭での内食が増え、どうせならそれを充実させようとして、工夫を重ねてきた家庭も少なくないだろう。調理器具を充実させたり、食材を吟味し、ときには遠方から希少な食材を取り寄せたりして、なんとかしておいしく食べようと努めてきた。そんななかで、これは絶対プロにはかなわないなと思うものと、そこそこ、という注釈付きではあっても、存外プロの味に近づけるものと、ふた通りあることが分かってきた。
もっとも意外だったのはご飯だ。今や割烹料理店の最大の見せ場と言ってもいいだろう、〆のご飯。このコラムでも何度も書いてきたが、土鍋を使ってご飯を炊くパフォーマンスは、今や当たり前のようになってきた。
炊く前の状態を客に見せ、ときには「煮えばな」と称して、途中経過も披露し、炊き上げたご飯を客に見せる様子は、「映え」る写真として、料理人の鼻を高くする。炊飯器まかせで、ご飯を炊くことを日常とする客にとって、アナログ装置で炊くご飯は、まねできないものとして、その価値を大いに認めてきたのである。
もっとも意外だったのはご飯だ。今や割烹料理店の最大の見せ場と言ってもいいだろう、〆のご飯。このコラムでも何度も書いてきたが、土鍋を使ってご飯を炊くパフォーマンスは、今や当たり前のようになってきた。
炊く前の状態を客に見せ、ときには「煮えばな」と称して、途中経過も披露し、炊き上げたご飯を客に見せる様子は、「映え」る写真として、料理人の鼻を高くする。炊飯器まかせで、ご飯を炊くことを日常とする客にとって、アナログ装置で炊くご飯は、まねできないものとして、その価値を大いに認めてきたのである。