

食語の心 第82 回
作家 柏井壽
器と味覚
いつのころからか、マルシェ、あるいはフードフェスタなどといった呼び名の、食イベントが盛んに行われるようになった。
春から秋にかけて、気候のいい時季の京都では、ほぼ毎週のように、こうした食イベントが開催され、どれもおおむね盛況のようだ。
人気の店には長蛇の列ができることも少なくないようで、普段は予約の取りづらい店も、このイベントに限っては、ハードルが下がるせいか、人気が集中すると聞く。 しばしば案内をいただくが、この手の食イベントには一切出向かないようにしている。
その理由は簡単で、どんな素晴らしい料理だとしても、あのペラペラの発泡スチロール容器で食べても、おいしく感じないからである。
ラーメンだとかカレーならまだしも、日本料理やフレンチを、あの容器で食べることが、我慢ならない。
日本料理というものは、たとえ一膳の白飯であっても、香の物ひと皿であっても、しかるべき器に盛られて、初めて形を成すものである。
それをないがしろにして、ただ食べられればいい、となれば、厳しい言い方をすれば、それは食事ではなく餌とおなじだと思う。イベントだから、野外だから、という理由付けもあるだろうが、ならば無理してそんな料理を出さなければいいのだ。
夏の食イベントの記事が、情報雑誌に掲載されていて、そこには某有名店の鯖寿司の写真があった。
イベントのPRを買って出たと思しきタレントの手には、白い発泡スチロールの器に、グリーンのビニール製葉は蘭(らん)が敷かれ、その上に鯖寿司が鎮座している。
その下には、鱧はもの落としを今まさに食べようとしている写真。もちろんこちらも発泡スチロールの器である。
マンガの吹き出しのようなセリフが付け加えてあり、「予約の取れない店の鱧は究極の美味!」とあった。
はたして、その予約の取れない店では、鱧の落としをどんな器で客に出しているのか。よもやプラスティックの器ではないだろう。京焼の名だたる作家の器を使ったそれと、おなじ味だというのだろうか。
少し前に行きつけの割烹店で、おもしろい試みをした。同じ日本酒を、古染付の磁器盃と、南蛮唐津のぐい飲みで、飲み比べてみたが、明らかに味が変わった。
春から秋にかけて、気候のいい時季の京都では、ほぼ毎週のように、こうした食イベントが開催され、どれもおおむね盛況のようだ。
人気の店には長蛇の列ができることも少なくないようで、普段は予約の取りづらい店も、このイベントに限っては、ハードルが下がるせいか、人気が集中すると聞く。 しばしば案内をいただくが、この手の食イベントには一切出向かないようにしている。
その理由は簡単で、どんな素晴らしい料理だとしても、あのペラペラの発泡スチロール容器で食べても、おいしく感じないからである。
ラーメンだとかカレーならまだしも、日本料理やフレンチを、あの容器で食べることが、我慢ならない。
日本料理というものは、たとえ一膳の白飯であっても、香の物ひと皿であっても、しかるべき器に盛られて、初めて形を成すものである。
それをないがしろにして、ただ食べられればいい、となれば、厳しい言い方をすれば、それは食事ではなく餌とおなじだと思う。イベントだから、野外だから、という理由付けもあるだろうが、ならば無理してそんな料理を出さなければいいのだ。
夏の食イベントの記事が、情報雑誌に掲載されていて、そこには某有名店の鯖寿司の写真があった。
イベントのPRを買って出たと思しきタレントの手には、白い発泡スチロールの器に、グリーンのビニール製葉は蘭(らん)が敷かれ、その上に鯖寿司が鎮座している。
その下には、鱧はもの落としを今まさに食べようとしている写真。もちろんこちらも発泡スチロールの器である。
マンガの吹き出しのようなセリフが付け加えてあり、「予約の取れない店の鱧は究極の美味!」とあった。
はたして、その予約の取れない店では、鱧の落としをどんな器で客に出しているのか。よもやプラスティックの器ではないだろう。京焼の名だたる作家の器を使ったそれと、おなじ味だというのだろうか。
少し前に行きつけの割烹店で、おもしろい試みをした。同じ日本酒を、古染付の磁器盃と、南蛮唐津のぐい飲みで、飲み比べてみたが、明らかに味が変わった。