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気が急(せ)くせいか、小走りになったので3分ほどで店の前に着いた。
 記憶のなかの佇(たたず)まいと同じだ。豚のイラストが描かれた暖簾は意外にも新しい。
 初めての店は緊張する。ひとつ深呼吸してから、思いきってドアを開けた途端に拍子抜けした。
 とんかつ屋というより、どう見ても食堂なのである。しかも昼どきだというのに、4人掛けのテーブル席は四つとも空席。つまり客は一人もいないのだ。
 そのまま引き返すということも頭に浮かんだが、食堂然としながら、整然と、清潔に保たれた店の空気に魅(ひ)かれた。
 白いデコラ張りのテーブル、グリーンのシートが貼られたパイプ椅子。まったく傷みはなく、掃除も行き届いている。
 プラケースに入った品書きを見て驚いた。とんかつもあるが、うどんや丼がメインのようなのである。しかもどれも安い。
 とんかつを目指していたのだが、オムライス580円というところに目が留まり、主人らしき男性にオーダーした。想像とは違ったが、これはきっとアタリだろうと確信した。
 その理由のひとつが清潔感。
 テーブルに備えられたソースや醤油(しょうゆ)のボトル、コショウ、七味などのスパイス類も、どれもピカピカに磨かれていて、補充したばかりのように満タンなのだ。
 こういう店は間違いなくおいしい。
 予想を裏切るどころか、期待をはるかに上回る味だった。
 翌日も出かけていって、とんかつを食べた。驚くべきはその値段。450円。小ライスを付けても630円。東京辺りの高級とんかつ屋と比べなければ、十分これはこれでおいしい。
 その次の日は、あっさりとした味付けの、昔懐かしい中華そば500円也(なり)に舌鼓を打った。
 数十年のブランクを一気に取り戻そうとしたわけでもないが、しばらくのあいだ通い詰める仕儀となった。
 食堂好きの僕にはぴったりの店で、かつ主人の仕事ぶりも実に誠実で、申し分のない店である。
 縁の不思議としか言いようがない。近くなのに遠い店があり、それはふとした拍子に近くなる。
 更に不思議なことが続く。この「T」のすぐ近くにある和食屋とも、これを切っ掛けにして、急接近したのである。その話はまた次回に。
かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
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