
食語の心 第64回
作家 柏井壽

宿と料理
珠玉の温泉フレンチとはいかなるものか。
すぐ傍らを川が流れる絶景を得られるレストランで始まったディナー。
ひと皿、ふた皿と食べ進むうち、そこが越中の温泉宿であることを、すっかり忘れ去ってしまっていた。
ふと、まわりを見れば浴衣掛けで、夕食を楽しんでいる客もいて、そこが間違いなく温泉宿だったことを思いださせてくれる。
そしてまたテーブルの上に目を戻すと、六本木あたりのフレンチレストランに居るような、不思議な錯覚に陥ってしまう。
だがここは富山県春日温泉に立つ「リバーリトリート雅楽倶」にあるレストラン「レヴォ」なのである。
テーブルに置かれた品書きには、素材だけが記されていて、調理法などは一切書かれていない。このあたりも、昨今の先鋭的なフレンチ的手法で、客の予感と期待を重ね合わせることで、食事の高揚感と価値を高めることにつながっている。
春まだ浅きこの夜。品書きに記されていたのは、富山の産地を明記したツキノワグマ、ホタルイカ、ノドグロだった。
長い歴史を持つホテルなどでは、たとえ温泉宿であっても、和食のみならずフレンチを供するところもある。しかしながらそれらはクラシックな料理に限られていて、モダンスパニッシュを取り入れたりは、決してしない。あくまで「和」の範疇(はんちゅう)を超えることのないフレンチなのだ。
しかるにこの宿のフレンチはどうだろう。そこまで尖(とが)ってもいいのだろうか、と思うほどに切っ先の鋭いフレンチなのである。
と、そこで終わってしまえば、レストランとしては秀逸であっても、宿の料理としては失格である。
温泉宿に泊まりに来ている客は、そのような鋭角な料理を望んでいないのだ。
心と体を休めるために訪れた温泉宿で、過度な緊張を強いられるようなディナーは誰も望んでいない。
きっとこのレストランのシェフはそれを熟知しているのだろう。ひと皿ずつ料理が進むごとに、丸みを帯びてくるのだ。
すぐ傍らを川が流れる絶景を得られるレストランで始まったディナー。
ひと皿、ふた皿と食べ進むうち、そこが越中の温泉宿であることを、すっかり忘れ去ってしまっていた。
ふと、まわりを見れば浴衣掛けで、夕食を楽しんでいる客もいて、そこが間違いなく温泉宿だったことを思いださせてくれる。
そしてまたテーブルの上に目を戻すと、六本木あたりのフレンチレストランに居るような、不思議な錯覚に陥ってしまう。
だがここは富山県春日温泉に立つ「リバーリトリート雅楽倶」にあるレストラン「レヴォ」なのである。
テーブルに置かれた品書きには、素材だけが記されていて、調理法などは一切書かれていない。このあたりも、昨今の先鋭的なフレンチ的手法で、客の予感と期待を重ね合わせることで、食事の高揚感と価値を高めることにつながっている。
春まだ浅きこの夜。品書きに記されていたのは、富山の産地を明記したツキノワグマ、ホタルイカ、ノドグロだった。
長い歴史を持つホテルなどでは、たとえ温泉宿であっても、和食のみならずフレンチを供するところもある。しかしながらそれらはクラシックな料理に限られていて、モダンスパニッシュを取り入れたりは、決してしない。あくまで「和」の範疇(はんちゅう)を超えることのないフレンチなのだ。
しかるにこの宿のフレンチはどうだろう。そこまで尖(とが)ってもいいのだろうか、と思うほどに切っ先の鋭いフレンチなのである。
と、そこで終わってしまえば、レストランとしては秀逸であっても、宿の料理としては失格である。
温泉宿に泊まりに来ている客は、そのような鋭角な料理を望んでいないのだ。
心と体を休めるために訪れた温泉宿で、過度な緊張を強いられるようなディナーは誰も望んでいない。
きっとこのレストランのシェフはそれを熟知しているのだろう。ひと皿ずつ料理が進むごとに、丸みを帯びてくるのだ。