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食語の心 第45回
作家 柏井壽
京都の洋食 その2
前回は、明治から大正にかけて、京都で生まれた洋食について書いた。
 花街洋食と呼ばれる洋食は、花街で遊ぶ旦那衆が育て、芸妓(げいこ) 舞妓(まいこ)に愛され続けて今に至る店。
 それらの多くは、花街にふさわしく、決して安価とは言えない価格設定で、庶民には縁遠い店だったと言われる。
 旦那衆が好んで食べる料理は、職人たちも興味津々。話だけ聞いているのではつまらない。手ごろな価格で食べられる洋食はないものか。そんな話を聞きつけて、とある洋食屋で働いていた料理人が、手軽な洋食屋を開くと大当たり。職人たちだけでなく、家族連れまでもが店に押し寄せ、たちまち評判を呼んだという。
 花街洋食から職人洋食へ、さらには家族洋食へと、京都の洋食は広がりを見せ、市内のあちこちに洋食屋の看板が上がることとなった。
 第二次世界大戦を挟んで、京都の洋食屋は全盛を迎え、やがて個性を競う時代へと移ってゆく。
 となってくると、洋食という言葉がひとり歩きを始め、さまざまに解釈した洋食が巷(ちまた)に現れる。
 今も大和大路(やまとおおじ)通の四条を上ったところに店がある「壹銭洋食」などがその好例で、ソースの味、すなわち洋食となって生まれた料理。大正の終わりごろから昭和の初めにかけて、大ヒット商品となった。
 これは後にお好み焼きという形に変わってゆくのだから、ある意味ではお好み焼きも洋食の一種と言えなくもない。 明治期に開店した洋食屋は、西洋から伝わってきた料理を多少はアレンジするものの、基本的には忠実に再現することを旨とし、レシピは本場とさほど違わない料理を供していた。
 それが昭和に入ると、個性あふれる洋食が誕生し、いわば和風洋食とでも言えるような、日本独自の洋食が、京都中に広く普及してゆく。
 とうの昔に店仕舞いをしてしまったが、洛北(らくほく)の御蔭(みかげ)通に「グリルフルヤ」という洋食屋があり、ここのビーフシチューは独特の味わいで人気を呼んだ。
 かの池波正太郎もその著書の中で絶賛しているが、花街でもなく、職人が多く住まう西陣界隈(かいわい)でもない、どちらかと言えば、高級の部類に入る住宅街にも、個性的な洋食屋が店を開くようになる。
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