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千本日活
西陣地区に現在、唯一残る映画館である。1961(昭和36)年に東宝封切館(東宝が配給する新作を公開する映画館)、五番街東宝(ごばんがいとうほう)として開館。同館は1963年に田坂具隆が監督して映画化した、水上勉の小説『五番町夕霧楼』の舞台となった、かつての「五番町遊廓」に位置し、同敷地は同町の花街組合の事務所の跡地である。1963年に千本日活と改称し、1971年からポルノ映画館へと転換した。この辺りのディープな昭和を千本日活が守っている。
京都市では、住宅地、特に町家が並ぶような景観地域にマンションを建てる場合、2階のひさしに瓦をのせるよう指導している。これに関しては、「中途半端に変な指導をするくらいなら、建築家に自由に競わせたほうがいいと思いますけどね」と井上さん。街並みはむしろ、市民の意思によって守られるべきだと考える。井上さんが子どもの頃は、京都にも古い街並みが残っていた。京都市右京区花園の妙心寺の南で生まれた井上さんには、近隣で一番大きくて立派な建物が妙心寺だった。5歳で嵯峨に引っ越したが、そこでも一番大きい建物は清凉寺釈迦(しゃか)堂どうだった。
「嵯峨は、ほとんどの時代劇の舞台だったんですよ。遠山の金さんも大覚寺でお白州で裁判をしていたし、水戸黄門の一行も、全国行脚と言いながら、ほとんど嵯峨を出たはらへん(笑)。暴れん坊将軍もうちの近所を走っていたんですよ。だから子どもの頃は、本気でテレビの江戸は嵯峨やと思ってた。嵯峨は太秦(うずまさ)の撮影所が近かったし、大覚寺の近くは電信柱を置かなかったから、江戸時代のような風景が残っていたのです」
 しかし昭和の後半になると、洛中だけでなく、京都全体で街並みがどんどん崩れていく。
「当時は、それを嘆く声もありませんでした。ここ20年で、ある種絶滅危惧種のようになってから、値打ちが上がってきたように思います。例えば大文字焼きも、昭和30年代はどこからでも見えましたが、今はビルが増えて見えなくなりました。山に囲まれた街だ、という実感もなくなりましたが、隠されているとありがたく感じるもので、ビルの隙間から見える山並みに、昔にはなかった思慕を感じるようになりましたね」
西陣京極 京極湯
1900年前後から1950年代にかけての西陣京極は、京の北にある繁華街として栄えていた。寄席や芝居小屋、映画館が多数立ち並び、西陣織の工場や染物工場の労働者たちを中心に文化・娯楽を提供した歓楽街であった。戦後しばらくは、“京極”といえばこの辺りのことで、現在の新京極のような街だったそうだ。この西陣京極の近くにあるのが京極湯。レトロなたたずまいの銭湯に、今日も地元の常連客がどんどん風呂に入りにやって来る。
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