
1959(昭和34)年に建立された「童子地蔵堂」は、市内で無縁仏となっていた地蔵を集めて安置したもの。小さな窓には色とりどりの平板がはめてあり、太陽の傾きによって変化を見せる。
吉田璋也の歩みに戻ろう。柳宗悦の民藝運動に共鳴した吉田だが、民藝運動家として本格的な活動をスタートさせたのは1931(昭和6)年、鳥取に帰郷し医師として耳鼻咽喉科医院を開業した後のことである。活動のきっかけは、町の陶器屋で見つけたとある五郎八茶碗(ごろはちぢゃわん)。その素朴でどっしりとした風合いに心引かれた吉田は、すぐに窯のある牛ノ戸の寒村を訪ねる。そしてそこで、昔ながらの材料や手法を守りつつ、現代の生活に合った日常の食器を製作させる取り組みをスタートさせた。自らが考えたデザインを作らせることが多かった。今でいう、デザイナーと作り手との“コラボ"の先駆けである。このように始まった吉田の活動は、焼き物にとどまらず染織、木工、金工、竹工、和紙と、あらゆる分野に広がっていく。例えば染織では、織物の得意な老婆を1年間ほど自分の家に雇い、地元の染物屋が染めた糸を使って帯や小物などを織らせた。そしてその老婆が織りや柄の知識を習得した頃に、村へ帰してリーダー役に据え、村の女性たちへ技術を伝えさせたという。吉田の取り組みは民藝品の復興にとどまらず、鳥取に新しい産業を生み出すまでに広がっていった。