
よしたけ・ひろき
1980年佐賀県生まれ。「ラ・ロシェル」「ル・ピラート」で修業後、26歳から1年間、バックパックで世界諸国をめぐり、さまざまな食文化に触れる。2008年渡仏。「ラストランス」などで修業。09年、シンガポールの「Hiroki88@Infusion」シェフに。10年11月、友人と共同経営でパリに「ソラ」をオープン。12年ミシュラン一つ星を獲得。
1980年佐賀県生まれ。「ラ・ロシェル」「ル・ピラート」で修業後、26歳から1年間、バックパックで世界諸国をめぐり、さまざまな食文化に触れる。2008年渡仏。「ラストランス」などで修業。09年、シンガポールの「Hiroki88@Infusion」シェフに。10年11月、友人と共同経営でパリに「ソラ」をオープン。12年ミシュラン一つ星を獲得。

金の皿、銀の皿
新世紀を作る料理人たち Vol.3
Sola 吉武広樹
新世紀を作る料理人たち Vol.3
Sola 吉武広樹
Photo Masahiro Goda Text Yukino Kano
日本でフランス料理の基礎を学んだ後、世界40カ国を渡り歩き料理の多様性に触れ、シンガポールのフランス料理店でシェフを務め、フランスで独立した吉武広樹氏。自由闊達な彼の料理は今、パリで輝きを放つ。
1990年代に『料理の鉄人』で坂井宏行氏が披露した、あでやかで美しい料理の数々が、吉武広樹氏をフランス料理人への道に導いた。専門学校時代に指導に来た坂井氏に直談判し、「ラ・ロシェル」に就職。日本を代表するフランス料理店の厨房での仕事は、並大抵の厳しさではなかった。10人いた同期は、1年後には吉武氏だけになっていた。料理への情熱が彼をこの店に食らいつかせ続けたのか? 「いえ、単に負けず嫌いなんです」と吉武氏は笑う。考えるよりも先に体を動かしていた。まかないは常に40~50人分も作る。
「ムッシュ(坂井氏)も食べるので、半端なものは作れませんでした。しかも、まかないには、レストランの仕込みで出た野菜くずなどもとっておいて使う。決して食材の無駄を出さない店でした。その場にあるものを使いきるという姿勢や、大人数の料理を作る経験は、その後の料理人人生に大いに役立っています」
「ラ・ロシェル」で3年、東京の「ル・ピラート」で3年の修業後、26歳で日本を後にする。目的地はフランスではなく、世界。
「すぐにフランスに行くのでは、他の料理人たちと同じになってしまう。僕は、他人にない自分だけの武器を作りたかった。それに、料理は世界中にあるもの。その土地ごとに必ず得るものがあると思いました」
バックパックを背負い、1年間で40カ国以上を回る世界旅行。金はない。現地で、料理を作る代わりに泊めてくれ、と交渉しながら諸国を渡り歩いた。カンボジアでは孵化しかけた卵やヘビの丸焼きを食べ、タイでは冷蔵庫がなくガスコンロ1個という環境で、100人分の料理を作り上げた。世界を渡りさまざまな経験を積み、2008年、いよいよフランス修業をスタートした。
世界中の料理を見たうえで、やはりフランス料理が一番印象的だったのだろうか?
「世界旅行中にフランスにも立ち寄り行った店が、当時はまだ珍しかったアルギン酸などを使った、自分には理解できない面白い料理で、興味を引かれたのです」
「ムッシュ(坂井氏)も食べるので、半端なものは作れませんでした。しかも、まかないには、レストランの仕込みで出た野菜くずなどもとっておいて使う。決して食材の無駄を出さない店でした。その場にあるものを使いきるという姿勢や、大人数の料理を作る経験は、その後の料理人人生に大いに役立っています」
「ラ・ロシェル」で3年、東京の「ル・ピラート」で3年の修業後、26歳で日本を後にする。目的地はフランスではなく、世界。
「すぐにフランスに行くのでは、他の料理人たちと同じになってしまう。僕は、他人にない自分だけの武器を作りたかった。それに、料理は世界中にあるもの。その土地ごとに必ず得るものがあると思いました」
バックパックを背負い、1年間で40カ国以上を回る世界旅行。金はない。現地で、料理を作る代わりに泊めてくれ、と交渉しながら諸国を渡り歩いた。カンボジアでは孵化しかけた卵やヘビの丸焼きを食べ、タイでは冷蔵庫がなくガスコンロ1個という環境で、100人分の料理を作り上げた。世界を渡りさまざまな経験を積み、2008年、いよいよフランス修業をスタートした。
世界中の料理を見たうえで、やはりフランス料理が一番印象的だったのだろうか?
「世界旅行中にフランスにも立ち寄り行った店が、当時はまだ珍しかったアルギン酸などを使った、自分には理解できない面白い料理で、興味を引かれたのです」