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(左から)日本武尊を祭神とする白鳥神社。海を望むこの大鳥居は、1691(元禄4)年に5代藩主の五島盛暢(もりのぶ)が寄進したもの。 / 明星院の本堂。現在の本堂は8代藩主の五島盛運(もりゆき)が火災にあった後に1778(安永7)年に再建した。この天井に121枚花鳥図が描かれている。 / 701(大宝元)年に空海が滞在して真言宗に改宗した大宝寺。子供の健やかな成長を願ってへその緒を納めたという石塔「へそ神様」がある。 / 大宝寺の一角にある言代主(ことしろぬし)神社では、国選択無形民俗文化財の秋祭り「砂打ち(ずなうち)」が行われる。
五島藩と江戸時代最後の城
禁教令が発令された年に、約100年間五島家の居城であった江川城が焼失してしまった。その3年後に盛利は、石田の浜に陣屋を構えた。同時に壮大な石垣を築き、幕府に海防を理由に築城願を出すなど、藩政の強化を図っている。さらに、五島列島の各地で勢力を蓄える者が現れることを恐れ、全島から家臣を集めて、城下に住まわせるという政策「福江直り」を実行。1634(寛永11)年までに170余の家が集められたという。現在の武家屋敷通りは、当時の屋敷割りをしのばせる。1637年ごろになると、近海に異国船が頻繁に出没するようになる。日本の最西端となる五島藩は、幕府から異国船の監視をするように命じられる。しかし、異国船警備に当たる五島藩としては城がないのは心もとなく、盛利の時から築城を願い出ていたが、なかなか許されなかった。
 そして、18世紀後半から幕末にかけてロシア、アメリカなど列強国が来航し、開国を迫るようになる。さらに、1808(文化5)年には、イギリス軍艦が長崎港に侵入してオランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任をとって切腹するというフェートン号事件が起きるなど国防の強化が急務となった。こうした情勢により、1849(嘉永2)年にようやく幕府から、10代藩主の盛成(もりあきら)が築城を許された。
  最西端の国防を任された五島藩は、15年もの歳月をかけて、本丸、二の丸などから成る東西約300メートル、南北に約250メートルの規模の城を築いた。江戸時代最後の城となった福江(石田)城は、三方を海に囲まれた日本唯一の海城であった。
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