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キリスト教を奨励、弾圧
 財政を立て直した盛定の子、純定(すみさだ)は病に伏してしまう。そして、1562(永禄5)年にイエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師のディエゴの治療を受けた。
 その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師の派遣を頼み、1566年にポルトガル人修道士、アルメイダと日本人修道士、ロレンソを迎え入れた。医師でもあったアルメイダは、純定の高熱を治療して、五島での宣教を許される。こうしてこの地でのキリスト教の歩みが始まったのだ。
 さらに信徒の数は増え続け、純定の次男である純尭(すみたか)が洗礼を受ける。その後、領主となった純尭は熱心に信仰した。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を超えて最盛期を迎える。しかし、純尭がわずか3年で没する。後継の純玄(すみはる)は、1592(文禄元)年に宇久の姓を五島に改め、祖父と父が信仰したキリスト教を排斥した。豊臣秀吉の命で朝鮮へ出兵した純玄は死亡。すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が家督を継ぎ、いったんはキリスト教を再興する。
 しかし、戦乱の世は動き、五島氏も翻弄(ほんろう)される。関ヶ原の戦いの後に、玄雅は1603(慶長8)年に幕府を開いた徳川家康から、1万5000石の所領を認める朱印状を下賜された。これをもって五島(福江)藩の誕生である。キリシタンであった玄雅は、肥後の加藤清正らの勧めによって棄教。その後も宣教師は来島したが、1614年に発令された禁教令を受け、後継の2代藩主の盛利(もりとし)は宣教師を追放。弾圧を強化した。
 禁教が解かれた後(明治以降)、ひそかに信仰を守り続けた人や、新たに外海地方から来た信徒たちの手により、島のあちこちに教会が建てられていった。その姿は、木造、レンガ造り、石造りと周囲の自然に溶け込むようにたたずむ。漁村の海辺に、山の中腹に、田畑の中にある教会が今の“五島らしさ"となっている。
(左)常灯鼻(じょうとうばな)は福江城を築く際の、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、工事を容易にするために、先行して造ったもの。現在の福江港から見える場所にある。防波堤と灯台の役割を担った。(右)玉之浦の港近くの元倉の街並み。港の裏には2階建ての民家がびっしりと並び、微妙なカーブを描きながら、細い路地と交差する。映画『男はつらいよ 純情篇』のロケ地。昭和の漁村らしさを感じる界隈だ。
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