
栃木山が横綱に昇進した時に作られた化粧まわし。栃木山の親類にあたる横田勝氏が市に寄贈したもので、倭町(やまとちょう)の栃木市観光協会に展示されている。
引退後は、養父である木村宗四郎(そうしろう)の持ち株であった年寄・春日野(8代)を襲名。当時は「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。これは栃木山の抜群の実績、人格が評価され、養父の株の継承であることもあり、不文律を作った本人である出羽ノ海(元横綱・常陸山)が、存命中に認めた唯一の例外であった。
栃木山が春日野部屋を創立した当初は、弟子が育たず困難が続いたが、戦後には第44代横綱・栃錦を育てた。栃錦は栃木山同様、小さい体ながら大きな力士たちを、巧みな技でしのぎ、その相撲ぶりを技の展覧会と評された。1954(昭和29)年9月場所後に横綱に昇進。同時期に横綱だった若乃花と激しい技の打ち合いをし、土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防に誰もが釘付けとなった。1950年代のこの黄金期を世に「栃若時代」という。また、栃錦が引退後(春日野部屋を引き継ぐ)、大関に育て上げた栃ノ海や栃光も、栃木山が存命の時に入門している。
栃木山が春日野部屋を創立した当初は、弟子が育たず困難が続いたが、戦後には第44代横綱・栃錦を育てた。栃錦は栃木山同様、小さい体ながら大きな力士たちを、巧みな技でしのぎ、その相撲ぶりを技の展覧会と評された。1954(昭和29)年9月場所後に横綱に昇進。同時期に横綱だった若乃花と激しい技の打ち合いをし、土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防に誰もが釘付けとなった。1950年代のこの黄金期を世に「栃若時代」という。また、栃錦が引退後(春日野部屋を引き継ぐ)、大関に育て上げた栃ノ海や栃光も、栃木山が存命の時に入門している。