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三之瀬地区に残る福島雁木(がんぎ)。幕命により福島正則が船着きの便をはかって築いたという。背後は朝鮮通信使が訪れた頃の茶屋の建築遺構である丸本家住宅(旧浅野藩下茶屋役宅)。福島雁木のようにいつの時代も人の利便性や安全性を考えるものだ。ボルボも同様に、最新の安全・運転支援機能を標準装備し、私たちを守ってくれる。
呉、海と坂の街Ⅱ
 呉市の本土から安芸灘(あきなだ)大橋を渡ると、下蒲刈島(しもかまがりじま)、上蒲刈島、豊島(とよしま)、大崎下島など七つの島々を結ぶ「とびしま海道」だ。玄関口となる下蒲刈島は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝であり、三之瀬(さんのせ)地区を中心に朝鮮通信使や参勤交代大名の寄港地としても栄えた。その歴史と豊かな自然を生かした全島庭園化事業「ガーデンアイランド構想」を掲げる、風光明媚(ふうこうめいび)な島である。
 三之瀬は広島城の南東約30㎞に位置し、広島藩の海駅として重視されていた。一方、城からは離れるものの、船乗りたちの潮待ち風待ちの港として独自の発展を遂げ、大いに栄えたのが、大崎下島の御手洗だ。
 この辺りの島々は、直接南風を受ける上に、潮の流れが速く、時に係船ができないほどの激しい沿岸流が起こる。
 しかし、御手洗水道だけは周囲の島がちょうど潮流の障壁となり、潮の流れが比較的緩やかなことで知られていた。そのため、鎌倉時代には来島村上(くるしまむらかみ)海賊が警護する“海の関"が設けられ、戦国時代には豊臣秀吉の四国攻めの際、加藤清正が城を築き、その時の石垣が残っているなど、折に触れて歴史の舞台となっている。だが、御手洗が真に繁栄するのは、江戸時代に入ってからだ。それまで瀬戸内海航路といえば陸地に沿って航行する「地乗り」が中心だったのが、航海技術の進歩によって瀬戸内海中心部の最短距離をとる「沖乗り」が利用され始めた。この新しい航路で寄港する港として注目されたのが御手洗だった。
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