
「景気は呉工廠から」といわれるほど、鎮守府として経済的にも発展した。海上自衛隊の艦艇は「日曜日の一般公開」が行われている(要事前予約)。
街は栄え、各地から集まった海兵の精鋭たちは女性たちの憧れの的となった。大正デモクラシーの気運が高まる中、呉海軍工廠(こうしょう)に勤務した宮地嘉六(みやちすけろく)が労働文学を打ち立てる。海軍楽隊の影響で音楽が発展し、作曲家の藤井清水、歌人の渡辺直己(なおき) ら呉市出身の文化人が活躍するなど、文化・スポーツの発信地としてもにぎわいを見せた。一方、この地で培われた技術の結晶として、1941(昭和16)年に建造されたのが、誰もがその名を知る戦艦「大和」だ。
当時最大の45口径46センチの主砲を持つ、史上最強の戦艦として設計された大和は、呉の港で秘密裏に建造された。海軍技師の仲野綱吉を始め、当時一流の技術者が集結した「大和」は、偵察機や観測機を艦上から発射する火薬発射式カタパルトの技術が後に新幹線の台車部分に応用され、目標までの距離を測る世界一の大きさと性能を持つ測距儀がカメラの精密光学産業につながるなど、日本の戦後復興を支えた技術の発展に大きく貢献している。呉市民としてその誕生に立ち会い、大和ミュージアムに「10分の1戦艦大和」を寄贈した新田祐生氏はこう記憶する。
当時最大の45口径46センチの主砲を持つ、史上最強の戦艦として設計された大和は、呉の港で秘密裏に建造された。海軍技師の仲野綱吉を始め、当時一流の技術者が集結した「大和」は、偵察機や観測機を艦上から発射する火薬発射式カタパルトの技術が後に新幹線の台車部分に応用され、目標までの距離を測る世界一の大きさと性能を持つ測距儀がカメラの精密光学産業につながるなど、日本の戦後復興を支えた技術の発展に大きく貢献している。呉市民としてその誕生に立ち会い、大和ミュージアムに「10分の1戦艦大和」を寄贈した新田祐生氏はこう記憶する。