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伯耆国の中心地、倉吉
(左)1908(明治41)年に国立第三銀行倉吉支店として完成した建造物。木造2階建て、土蔵造り、擬洋風の外観は、当時の倉吉のランドマーク的役割を果たしていた。
(右)今もさまざまな店が軒を連ねる本町通りの商店街。暮れなずむ倉吉の町にあっても、レクサスLSのエモーショナルな造形を際立たせる。最高級セダンならではの、美しさを実感できる。
伯耆国の物流の要が赤碕なら、古代からの政治の拠点であったのが倉吉だ。奈良時代には伯耆国の国府が置かれ、聖武天皇の国策による国分寺や国分尼寺も建立された。
 鎌倉時代以降、城が築かれ、室町時代に地元の南条氏が治めるようになると、本格的な城下町が形成され始めたという。1609年には江戸幕府の天領となり、1614年に安房国の里見忠ただ義よしが移されてきた。翌1615(元和元)年に一国一城令で打吹城は廃城となり、倉吉が城下町から商工業の町の色合いをより濃くしていくのは、1617年に池田光政(みつまさ)が鳥取藩へ移封されてからだ。まず、池田光政の重臣である伊木忠貞(いぎたださだ)
により治水工事が行われた。これにより、魚町から西町にかけての商人たちが白壁の土蔵を建て、収穫した米の確保をした。さらに、藩内統治の施策として重要な地を家老職の家に委任統治させ、荒尾氏が打吹山の麓に陣屋を構えた。
 この陣屋を中心として、打吹山と小鴨川の間に東西に両翼を広げるように倉吉の町は形成されている。商工都市として、商家の蔵が立ち並ぶほど繁栄したのは、江戸時代の中期から明治時代にかけてである。その名を全国に知らしめたのが、稲扱千刃(いなこきせんば)と倉吉絣かすりだ。
 玉川の南側は商人町、北側は職人町で南側の魚町から西の東仲町、西町にかけて残る商家の町並みや、裏手の玉川沿いに白壁の蔵が立ち並び、今も往時のたたずまいが、かつての栄華を物語っている。
東仲町辺りには、江戸時代から明治時代にかけて、格子戸を持つ造り酒屋や醤油屋などの商家が建てられ、すぐ裏手の玉川沿いには、今でも白壁の土蔵が立ち並ぶ。そのしっとりとした雰囲気の倉吉にレクサスLSは合う。
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