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(左)若狭神宮寺
ピンと張られた注連縄が時とともに緩み、屋根との隙間にすっぽり志羅山が納まるとか。“ 注連縄額縁” だ。「年に一度、山の頂点に冬のお月さんが見える」と住職。風流である。
(右)若狭から東大寺二月堂へ。香水の旅はここ鵜の瀬から始まる。神事の夜、大護摩の炎が漆黒の闇を赤々と照らす。
多数の密教寺院が物語るもの
若狭には寺院が多い。小浜市内だけで、何と130余り。その中に多数の密教寺院があることが特徴的だ。
「特に多田ケ岳山麓に密集していますよね。古くは飛鳥時代から寺院は建てられ、後に天台寺院に転用され、今は地名にその名をとどめる太興寺(たいこうじ)。出土した瓦から奈良の影響を受けていたことが分かります。盛んに寺が建造されたのは平安時代に入ってからですね。密教寺院が多いのは、都の影響でしょう。天皇や貴族が深く帰依していたので。仏像も多く残っていて、主流は都で造られた像なんですよ。羽賀寺(はがじ)の十一面観音菩薩像とか、妙楽寺(みょうらくじ) の二十四面千手観音菩薩像、中山寺(なかやまでら)の馬頭観音菩薩像など、立派な仏像が多いですね」
 寺院建造と並行して、京の貴族や寺院が荘園を領有する、という動きも出てきた。例えば、近江の延暦寺は志積浦(しつみうら)などを荘園として海産物を入手していたし、京都の上賀茂神社領の賀茂荘は国司への税を免除された免田という土地から発展したもの。平安後期に入ってからはますます荘園が増えていった。領主は田を確保し、一方、港で貿易などを行い、富を蓄えたと推察される。その副産物と言うべきか、若狭には平安から鎌倉時代にかけて京都や奈良の寺社で奉納された芸能が伝えられ、今も大切に継承されているそうだ。
 ちなみに室町時代初期、時の将軍足利義満への贈り物に、象や駝鳥(だちょう)などの珍奇な動物を積んだ南蛮船が小浜に入港したという記録がある。日本との交易を求めてのこと。といっても「当時の国の正規の玄関が兵庫や堺だったとすると、小浜は控え玄関」といったところか。海外貿易の拠点であったわけではないらしい。
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