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北前船の本拠地
三丁町
狭い路地を挟んで、紅殻格子や出格子の家や料亭が軒を連ねる。どこからか三味線の音や小唄が聞こえてくることも。茶屋街だったかつての面影を残す落ち着いた界隈(かいわい)だ。
「御調塩」と「御贄」
律令制が始まった奈良時代、「租・庸・調」という税法の下、若狭の人々は「調」として、特産物である塩を納めていた。4世紀半ばごろから製塩が行われ、7世紀後半には独自の大型平底土器を開発し、大量に塩を藤原京や平城京といった都へ送っていたという。それを物語るのが、岡津(おこづ)製塩遺跡である。
 小浜市街から国道27号線を西に走ること約10㎞、小浜湾の奥まった所に、その遺跡はある。若狭富士と称される青葉山が真正面に見える眺めのいい場所だ。素人目には、石がごろごろある空き地に映るが、「極めて保存の良好な、古代の土器製塩工房跡の全容を示す」遺跡。石の敷き詰められた所が製塩炉跡だ。
「藤原京や平城京で出土した木簡(若狭からの送り状)から、『御調塩』、つまり宮中に入って天皇の食材として使われた塩を納めていたと分かります。濃縮した海水を繰り返し土器に注ぎ、煮詰めて塩の結晶を取りだして、さらにそれを焼いて精製塩にする。けっこう手間のかかる産物なんですね、塩は。平安時代以降は瀬戸内に押されたのか、若狭の製塩業は衰退したと言われています」
 福井県立若狭歴史民俗資料館の芝田寿朗(しばたとしろう)館長はさらに、若狭ではこの御調塩とは別に、税ではなく天皇の食材として、「御贄(みにえ)」を貢進していたことに言及する。
「例えば『若狭国遠敷郡青里御贄多比鮓一かく(おにゅうあおのさとたいのすしいっかく)』と書かれた木簡が出土しています。『多比』は『鯛』、『鮓』は発酵食品の『なれずし』でしょう。ほかにも貽貝(いがい)鮓とか鰒(あわび)鮓、貽貝富也交(ほやまぜ)鮓といった御贄も送られたようです。都までは距離があって、生では運べないので、こちらも発酵させるなどの一手間かかる産物ですよね」
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