
不昧公ゆかりの茶室、明々庵。一時は東京に移されるなど転々とした後、戦時を経て荒廃していたが、1966(昭和41)年の不昧公150年祭を機に現在の赤山に移され、かつての姿を取り戻した。
松江藩主・不昧公と茶道
不昧とは松平治郷(はるさと)の号であり、17歳で出雲国主となった人物である。財政難に苦しんでいた松江藩を、治水事業による新田開発を始め、薬用人参(にんじん)の栽培、たたら製鉄(玉鋼づくり)の奨励などによって改革を進め、藩政を立て直した名君だ。
一方で、19歳で禅の修行を積み、師である江戸の天真寺の大巓(だいてん)和尚から、仏教書にある「不落不昧」にちなんで不昧の名を授かった。茶道に傾倒したのは、「茶禅一味」と言われる、禅と茶道の関係の深さゆえであろう。三斎流や石州流を学んだ不昧公は、茶道を極め、自ら不昧流を完成させた。
茶器の研究でも知られ、不昧公が収集した約800点にも及ぶ道具類が『雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)』に記され、現在でも雲州名物として重視されている。書や画、和歌、俳句、陶芸なども嗜む一流の文化人であった不昧公はまた、茶室の建築でもその才能を現した。
一方で、19歳で禅の修行を積み、師である江戸の天真寺の大巓(だいてん)和尚から、仏教書にある「不落不昧」にちなんで不昧の名を授かった。茶道に傾倒したのは、「茶禅一味」と言われる、禅と茶道の関係の深さゆえであろう。三斎流や石州流を学んだ不昧公は、茶道を極め、自ら不昧流を完成させた。
茶器の研究でも知られ、不昧公が収集した約800点にも及ぶ道具類が『雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)』に記され、現在でも雲州名物として重視されている。書や画、和歌、俳句、陶芸なども嗜む一流の文化人であった不昧公はまた、茶室の建築でもその才能を現した。