
コンドルが描いた第一号館の外観。コンドルは全ての設計図に丁寧に彩色する。使用素材を的確に把握できる資料として、2007年の復元作業の際にも大いに役立った。写真提供/三菱地所
コンドルと三菱の建築
明治時代は、政府の招きにより西欧のさまざまな技術を教える外国人が多く来日していた―いわゆる「御雇い外国人」である。丸の内のオフィス街開発の立ち上げから関わり、牽引役として活躍した英国人建築家ジョサイア・コンドルも、御雇い外国人として招かれ、来日した技術者の一人だ。
コンドルが来日したのは1877(明治10)年。工部省による依頼で、東京大学工学部の前身である工部大学校の教師として着任した。来日した時コンドルは弱冠24歳であったが、来日前年には一流建築家の登竜門とされるソーン賞を受賞するなど、そのまま英国にとどまっていても十分に活躍が期待できたほどの実力を持つ、将来性豊かな建築家であった。実際、コンドルは工部大学校で日本の近代建築を担う人材も多数育てており、辰野金吾(東京駅等)、曽禰達蔵(そねたつぞう)(三菱三号館~七号館等)、片山東熊(かたやまとうくま)(現・迎賓館等)らが弟子として知られる。教えながらコンドル自身も建築家として活躍し、旧帝室博物館本館、鹿鳴館など政府主導による西洋建築に携わった。
コンドルが来日したのは1877(明治10)年。工部省による依頼で、東京大学工学部の前身である工部大学校の教師として着任した。来日した時コンドルは弱冠24歳であったが、来日前年には一流建築家の登竜門とされるソーン賞を受賞するなど、そのまま英国にとどまっていても十分に活躍が期待できたほどの実力を持つ、将来性豊かな建築家であった。実際、コンドルは工部大学校で日本の近代建築を担う人材も多数育てており、辰野金吾(東京駅等)、曽禰達蔵(そねたつぞう)(三菱三号館~七号館等)、片山東熊(かたやまとうくま)(現・迎賓館等)らが弟子として知られる。教えながらコンドル自身も建築家として活躍し、旧帝室博物館本館、鹿鳴館など政府主導による西洋建築に携わった。