
左手に見えるのが、1896(明治29)年竣工の第三号館。ジョサイア・コンドルの設計で、街角にそびえる円形の塔がエキゾチックな雰囲気。右に少し見えるのが、レンガの赤と石の白の横しま模様が印象的な東京商工会議所。写真提供/三菱地所
最終的に彌之助は128万円、当時の東京市の年間予算の3倍、そして周辺地価の5倍もの計算となる高額で丸の内の土地を購入した。1891(明治23)年のことである。
なぜ彌之助は、かくも高い値付けの払い下げに応じたのか? 「お国へのご奉仕の意味を以って」と語っているが、“三菱の大番頭(おおばんとう)"といわれていた重役の荘田平五郎(しょうだへいごろう)による進言も大きな後押しとなった。
荘田は海外経験が豊富で欧米の都市事情に詳しく、また東京市の市区改正計画に自ら関わるなど、国家の近代化における都市設計の重要性を深く認識していた人物。「西洋式オフィス・スツリートの建設が急務」と経済を発展させるには、基盤となる西洋式オフィス街が絶対に必要であることを見抜いていた。そのため、丸の内の払い下げが難航し、彌之助の元に蔵相自らが要請に訪れたと聞いた時、ぜひ購入すべきだと進言したという。
彌之助は荘田のビジョンを理解し、ここに一流のオフィス街をつくり上げる構想を描く。そして、これからの日本の発展に欠かせない街に成長することを確信し、購入を決断した。
なぜ彌之助は、かくも高い値付けの払い下げに応じたのか? 「お国へのご奉仕の意味を以って」と語っているが、“三菱の大番頭(おおばんとう)"といわれていた重役の荘田平五郎(しょうだへいごろう)による進言も大きな後押しとなった。
荘田は海外経験が豊富で欧米の都市事情に詳しく、また東京市の市区改正計画に自ら関わるなど、国家の近代化における都市設計の重要性を深く認識していた人物。「西洋式オフィス・スツリートの建設が急務」と経済を発展させるには、基盤となる西洋式オフィス街が絶対に必要であることを見抜いていた。そのため、丸の内の払い下げが難航し、彌之助の元に蔵相自らが要請に訪れたと聞いた時、ぜひ購入すべきだと進言したという。
彌之助は荘田のビジョンを理解し、ここに一流のオフィス街をつくり上げる構想を描く。そして、これからの日本の発展に欠かせない街に成長することを確信し、購入を決断した。