
神楽坂2丁目、アグネスホテル直営のパティスリーがル・コワンヴェール。パリの街角をほうふつさせる店構えだ。


(左)若宮町の角地に2011年12月にオープンしたスコティッシュパブ「The Royal Scotsman」。異国情緒は近年の神楽坂の強烈な味付けだ。
(右)ル ブルターニュは1996年にオープン。ブルターニュ地方発祥のガレットをシードルとともに味わいたい。
(右)ル ブルターニュは1996年にオープン。ブルターニュ地方発祥のガレットをシードルとともに味わいたい。
花街の迷い道
幾多の文士を籠絡(ろうらく)した神楽坂の花街は、肴町の行元寺(ぎょうがんじ)(後に品川に移転)や赤城神社に発生した、下級武士や町人相手の岡場所から発展したとされる。当時、両国回向院前の私娼は「金猫」、それより値が安い神楽坂の私娼は「銀猫」と呼ばれたとか。
花街ができたのは1857(安政4)年だが、「明治初年に肴町に住んでいた常磐津の師匠、お亀が三味線を始め踊り、茶道、華道等芸事全般に通じていて、若い芸者の指導をしたことが神楽坂花柳界の本格的な歴史の始まり」と伝えられる。かの西郷隆盛もしばしば座持ちの良いお亀を座敷に招いたそうだ。
ほどなく花街の規制緩和を追い風に、武家屋敷の横丁が一気に芸者屋や料亭に塗り替えられた。さらに三十数年後には芸者置屋、待合、料理屋の三業地として発展。東京でも最有力の花街になったのである。戦後もいち早く復興し、政治家や鉄鋼業界の有力者などが足繁く料亭に
通ったほか、その名も神楽坂はん子の歌う『芸者ワルツ』の大ヒットに乗って、神楽坂の花柳界は全国に名が知れた。最盛期には芸妓(げいこ)が200名以上、料亭が約80軒にも上ったというから、かなり華やかなものだっただろう。
残念ながら、規模的にはかなり縮小されたが、今なお花街情緒は生きている。兵庫横丁、料亭幸本(ゆきもと)と旅館和可菜(わかな)の間の路地、かくれんぼ横丁、芸者新道……ピンコロ石の石畳と黒塀が織りなす風景に、小路をそそと歩く芸妓の姿に、花街の粋と芸妓の心意気が溶け込んでいる。
時代の波に洗われるのはやむなしと達観し、新しい風潮にちょっと色気を見せて町の様相を変化させながらも、魂までは奪われない。そこに「神楽坂の粋」の本質を感じた。
幾多の文士を籠絡(ろうらく)した神楽坂の花街は、肴町の行元寺(ぎょうがんじ)(後に品川に移転)や赤城神社に発生した、下級武士や町人相手の岡場所から発展したとされる。当時、両国回向院前の私娼は「金猫」、それより値が安い神楽坂の私娼は「銀猫」と呼ばれたとか。
花街ができたのは1857(安政4)年だが、「明治初年に肴町に住んでいた常磐津の師匠、お亀が三味線を始め踊り、茶道、華道等芸事全般に通じていて、若い芸者の指導をしたことが神楽坂花柳界の本格的な歴史の始まり」と伝えられる。かの西郷隆盛もしばしば座持ちの良いお亀を座敷に招いたそうだ。
ほどなく花街の規制緩和を追い風に、武家屋敷の横丁が一気に芸者屋や料亭に塗り替えられた。さらに三十数年後には芸者置屋、待合、料理屋の三業地として発展。東京でも最有力の花街になったのである。戦後もいち早く復興し、政治家や鉄鋼業界の有力者などが足繁く料亭に
通ったほか、その名も神楽坂はん子の歌う『芸者ワルツ』の大ヒットに乗って、神楽坂の花柳界は全国に名が知れた。最盛期には芸妓(げいこ)が200名以上、料亭が約80軒にも上ったというから、かなり華やかなものだっただろう。
残念ながら、規模的にはかなり縮小されたが、今なお花街情緒は生きている。兵庫横丁、料亭幸本(ゆきもと)と旅館和可菜(わかな)の間の路地、かくれんぼ横丁、芸者新道……ピンコロ石の石畳と黒塀が織りなす風景に、小路をそそと歩く芸妓の姿に、花街の粋と芸妓の心意気が溶け込んでいる。
時代の波に洗われるのはやむなしと達観し、新しい風潮にちょっと色気を見せて町の様相を変化させながらも、魂までは奪われない。そこに「神楽坂の粋」の本質を感じた。