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(左)兵庫横丁の老舗旅館・和可菜は別名「物書き旅館」。内田吐夢、山田洋次、寺山修司らの作品の多くがここで生まれた。
(右上)軽子坂と本多横丁の交差点に近いうを徳は、泉鏡花と芸者・桃太郎の運命の恋の舞台。花街の薫りを残す名店だ。
(右下)石畳の芸者小道(熱海湯階段)の途中にある別亭鳥茶屋。17種の具が味わえる名代うどんすきは神楽坂名物だ。
 紅葉で特筆すべきは、泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉の「牛門四天王」を始めとする多くの門人を輩出したこと。彼らが行き交う朝日坂にはこの頃、官許・にごり酒の醸造で知られる飯塚酒店があった。
 酒なしにはいられない貧乏文士が集い、大いに繁盛したようだ。
 文士と言えば「色恋」の話題に事欠かない。19歳からの3年間、十千万堂に寄宿し、1階で玄関番を務めた鏡花も、紅葉先生に連れられて花街に遊んだ。後に、軽子坂に今も残る料亭うを徳の芸者・桃太郎と恋に落ち、小栗横丁に所帯を持ったのはいいけれど、紅葉の逆鱗に触れて別れさせられた、なんて“事件"を引き起こしている。戯曲『湯島の境内』のあの名せりふ―「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉……」は、この時の桃太郎の苦悩を表現したものだ。
 ついでながら、「朝日坂の恋」をもう一つ。坪内逍遥とともに文芸協会を起こした島村抱月と、同協会1期生の女優・松井須磨子の恋である。これがもとで抱月は逍遥と訣別(けつべつ)するが、須磨子と芸術座を立ち上げ、朝日坂の中ほどに芸術倶楽部を開いた。二人は実に名コンビ。舞台は『復活』以降、当たりに当たった。ただ抱月は48歳の若さで病死。その2カ月後に須磨子は後追い自殺。家々の間に寺院が点在する朝日坂の静けさの中に佇たたずむと、悲しくも美しいこの恋の結末に心までシンとしてしまう。
 また、夏目漱石も神楽坂と縁の深い文豪である。早稲田南町に山房を開き、弟子たちの集まりを持った。寺田寅彦、和辻哲郎、内田百閒ら、こちらも錚々(そうそう)たる顔ぶれ。彼らは会が終わると神楽坂の飲食店や演芸場、寄席に繰り出したという。漱石は大の落語好き。軽妙洒脱(しゃだつ)な文章に、神楽坂で培った落語的感性が生きている。もちろん、神楽坂を点描した作品は多数。例えば『それから』の主人公・代助は袋町の住人だ。地蔵坂や神楽坂通りを行き来した代助気分でこの辺りを歩くと、自然と漱石を読み直したい気持ちが湧いてくる。
 ほかにも田山花袋、正宗白鳥、北原白秋、森敦など、神楽坂に吸い寄せられた文士は多い。神楽坂はまさに「近代日本文学誕生の地」なのだ。
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