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(左)若宮八幡神社は源頼朝が建立。室町時代に太田道灌が再興した。
(右)明治時代の赤城神社は文化芸術の場。坪内逍遥ら演劇人が集った。
 神楽坂下から少々急な坂道を上り、時折、足の向くままに両側の小路をさまよううちに、ふと「縦縞(たてじま)の粋」という言葉が浮かんだ。九鬼周造が『「いき」の構造』(岩波書店)の中で「横縞よりも縦縞の方が『いき』である」と書いていたことを思い出したのだ。
 垂直に走る平行線の群れはどこまでもつかず離れず、一定の距離を保つ。その縦縞の“行き方"が、神楽坂という町の持つ、空隙の自由を擁護するような心地よい距離感につながっているように思える。さらに言えば、変幻する時代に柔軟に沿う「媚び」と「諦め」、そして町の伝統を受け継ぐ「意気地」―その3要素から成る「神楽坂の粋」がまた、九鬼の言う「いき」の構造に通底する。

日本近代文学誕生の地

 神楽坂通りを背骨とし、両側に台地の起伏に沿うように湾曲するいくつもの小路が入り組む。この現代の道筋は、ほぼ寛永年間(1624~1644)のまま。神楽坂は徳川3代将軍・家光が神楽坂通りと神楽坂河岸を造成したことにより、何百年もの営みを続ける生命体としての命を吹き込まれた町である。当時は武家屋敷や寺院が先住者の間に割り込むように配置されたという。
 この地に多くの文士たちが流入したのは明治の中ごろ。武士が消え一時は寂れた神楽坂だが、やがて花街が出現し、一方で鉄道の開業や神楽河岸付近に荷舟の出入りが増えたことを背景に物流の拠点となり、出版業を含む地場産業が発達した。文士たちが“職遊近在"にして色香漂うこの新興地の魅力に吸引されたのも、自然の流れだろう。
 “神楽坂文士"の渦を巻き起こしたのは尾崎紅葉である。1891(明治24)年に横寺町の鳥居家に移り住んだ。現在の神楽坂6丁目、スーパーキムラヤの角を左に入った朝日坂沿い、大信寺に隣接するこの家を自らの俳号から「十千万堂(とちまんどう)」と呼び、36歳で亡くなるまでの12年間を過ごした。『金色夜叉(やしゃ)』はこの2階の書斎で生まれた名作である。
町の顔であるこの神楽坂通りは、1636(寛永13)年に徳川3代将軍・家光がつくったもの。以来、今まで同じ道幅のまま町の歴史を刻んでいる。
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