
(左)おはるず御嶽(大主神社)。立派な鳥居は、明治の琉球処分以降に皇民化政策により御嶽が神道施設化された時に設置されたものと思われる。
(右)仲宗根豊見親の墓の近くの亀甲墓。妊婦の下半身がかたどられ、「死んだら母のところに戻り、またここから生まれる」ことを表すとか。
(右)仲宗根豊見親の墓の近くの亀甲墓。妊婦の下半身がかたどられ、「死んだら母のところに戻り、またここから生まれる」ことを表すとか。
創世神話を訪ねて
「下界の風よからんところに島を造りなせ」―天帝(あめのてだ)に命じられた弥久美神(やぐみのかみ)は、授けられた天の岩柱を大海原に向かって投げた。すると、その岩柱が固まって島ができた。これが、神話が伝える「宮古島誕生」の瞬間である。さらに天帝は、古意角神(こいつのかみ)に「下界に降りて人の世を建て、守護神となれ」と命じる。古意角神は、「我に足らざる片つ体を賜たまえ」と願い、女神の姑依玉(こいたま)を連れて天降り。一切の人々、森羅万象を生み出して昇天なされたという。
宮古島市の中心・平良字西里にある「漲水御嶽」は、そんな古伝により造られた、二柱の神を祀った御嶽である。ここに立つと、思いが太古の昔に飛ぶようだ。
この周辺には、15世紀末から16世紀初めにかけて宮古島の支配者として君臨した仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の時代の影がくっきりと映じている。「豊見親」とは名高い領主の称号だ。その仲宗根豊見親が父の霊を弔うために築造したとされる墓や、彼が創建した政庁・蔵元の跡、平良の頭職を務めた三男・知利真良(ちりまら)豊見親の墓などが、往時を伝える。
ここでちょっと、歴史に触れておこう。琉球王国の正史『球陽』に「宮古島の豪族の与那覇原一族の真佐久が1390年に沖縄本島の王権・中山王に朝見し、宮古首長に任命された」とある。宮古島には14世紀中頃までに多くの豪族が出現し、仲宗根豊見親の祖先に当たる目黒盛(めぐろもり)豊見親が全島統一を果たした。与那覇勢頭豊見親は、実は敗者だったわけだが、中山、つまり琉球王国を後ろ盾にして、巻き返しを図ったものと思われる。この頃から宮古島は琉球王国の統治下に組み込まれていく。その後、仲宗根豊見親が首里王府軍とともに、1500年に八重山におけるオヤケ・アカハチの乱、さらに1522年に与那国で起こった鬼虎の乱を平定し、武力で宮古島と八重山を支配下に治めた。それにより、平良に蔵元が置かれたのである。
以後の曲折は省くが、平良にはだから“神話時代"とは異なる、琉球王国支配下の国としての草創期の姿も色濃く残っている。
宮古島市の中心・平良字西里にある「漲水御嶽」は、そんな古伝により造られた、二柱の神を祀った御嶽である。ここに立つと、思いが太古の昔に飛ぶようだ。
この周辺には、15世紀末から16世紀初めにかけて宮古島の支配者として君臨した仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の時代の影がくっきりと映じている。「豊見親」とは名高い領主の称号だ。その仲宗根豊見親が父の霊を弔うために築造したとされる墓や、彼が創建した政庁・蔵元の跡、平良の頭職を務めた三男・知利真良(ちりまら)豊見親の墓などが、往時を伝える。
ここでちょっと、歴史に触れておこう。琉球王国の正史『球陽』に「宮古島の豪族の与那覇原一族の真佐久が1390年に沖縄本島の王権・中山王に朝見し、宮古首長に任命された」とある。宮古島には14世紀中頃までに多くの豪族が出現し、仲宗根豊見親の祖先に当たる目黒盛(めぐろもり)豊見親が全島統一を果たした。与那覇勢頭豊見親は、実は敗者だったわけだが、中山、つまり琉球王国を後ろ盾にして、巻き返しを図ったものと思われる。この頃から宮古島は琉球王国の統治下に組み込まれていく。その後、仲宗根豊見親が首里王府軍とともに、1500年に八重山におけるオヤケ・アカハチの乱、さらに1522年に与那国で起こった鬼虎の乱を平定し、武力で宮古島と八重山を支配下に治めた。それにより、平良に蔵元が置かれたのである。
以後の曲折は省くが、平良にはだから“神話時代"とは異なる、琉球王国支配下の国としての草創期の姿も色濃く残っている。