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これに比して今の食の書き手たちは、微に入り細に入り、あーだこーだ、と食そのもののディテールばかりを書き込んで、ちっとも周りの情景を描かない。皿の上だけに終始する。なのに、その蕎麦の味わいがまるで伝わってこない。
 どこそこ産の蕎麦粉を使い、から始まり、石臼でひき、だの、エッジを立てて、と、いかにその蕎麦が素晴らしいかという賛辞を連ねることに終始する。そしてそれらはすべてが店側の情報を垂れ流しているだけの受け売りに過ぎないのだが、誰もがそれを恥じることもない。これではまるで店の広報ライターではないのか、と思える文章が多すぎる。
 蕎麦に限らず、プロもアマも、あまりに料理人の言葉を鵜蜷桙ンにしているのではないか、と思う。食べて何かを感じる前に、まずは知識が先行してしまう。牛肉料理を前にして、まずはブランド名を挙げ、それをどれほど熟成させたか。何度で調理したか。まるで科学の実験のような記述を、立ち会ってもいないのに、断定的に書いてしまう。一切の検証もない。
 基本的に僕は、食を綴るときに、この手の情報は書かないようにしている。雑誌ならキャプションで補うことはあるかもしれないが、産地ですら「だそうだ」と書き、断定はしない。確かめようがないからだ。あくまで感じたことだけを綴る。それが〈食語り〉の要諦だと思っている。
 食を語る。あるいは綴るなら、野に咲く花を思い浮かべるのがいい。
 どんな場所で、どんな風情で咲いているのか。香りはどうなのか。大きさは、色合いは。どこに惹かれたのか。花は何も情報を伝えないから、見たまま、感じたままを書くしかない。それを食にも当てはめればいいだけのこと。あまり知識を詰め込まずにいた方が素直な文章になる。
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