選ばれ続けた高台の地
近代に入っての本来のお屋敷町というのは、おしなべて高台にある。代表格である松濤や南平台も高台の高級邸宅地だ。そして、渋谷区のどの高級住宅地よりも、標高の高いところに位置するのが、この大山町である。
特に、1923(大正12)年に起こった関東大震災で被害が少なかったことで、土地の“強さ"が評判となり、近代的な宅地として整備されることとなった。しかし、大山はその以前から、時代の名士たちを引き付けた歴史を持つ土地であった。
かつて、山と見まがう深閑とした森であったこの地を、明治初期の頃、農園として所有したのが維新で活躍した木戸孝允(桂小五郎)だ。その後、明治政府で日英通商航海条約の調印を務めた外交官の青木周蔵から、辺り一帯を所有した鈴木善助へと地主が移り、1913(大正2)年、鈴木によっておよそ7万6000坪の広大な遊覧施設「大山園」として整備され、一般に開放された。和風庭園を中心に、あずまやや滝を備えた風光明媚な場所だったという。この大山園が、今に至る「大山」という地名の由来である。
大山園は後に、紀州徳川家第15代当主にして政治家、実業家として活躍した徳川頼倫の所有となる。現在でも、大山がときに「徳川山」と呼ばれているのはこのためだ。
特に、1923(大正12)年に起こった関東大震災で被害が少なかったことで、土地の“強さ"が評判となり、近代的な宅地として整備されることとなった。しかし、大山はその以前から、時代の名士たちを引き付けた歴史を持つ土地であった。
かつて、山と見まがう深閑とした森であったこの地を、明治初期の頃、農園として所有したのが維新で活躍した木戸孝允(桂小五郎)だ。その後、明治政府で日英通商航海条約の調印を務めた外交官の青木周蔵から、辺り一帯を所有した鈴木善助へと地主が移り、1913(大正2)年、鈴木によっておよそ7万6000坪の広大な遊覧施設「大山園」として整備され、一般に開放された。和風庭園を中心に、あずまやや滝を備えた風光明媚な場所だったという。この大山園が、今に至る「大山」という地名の由来である。
大山園は後に、紀州徳川家第15代当主にして政治家、実業家として活躍した徳川頼倫の所有となる。現在でも、大山がときに「徳川山」と呼ばれているのはこのためだ。


(上)井ノ頭通りの坂の途中には、レンガ造りの建物や、イスラム教のモスク・東京ジャーミイがあり、異国情緒も漂う。どこかゆったりと時が流れているようだ。
(下)丘の上のお屋敷町。町全体にそんな雰囲気が漂う。近代になって計画的に造られた町であるため、道幅は広めで一方通行の道路はほとんどない。車での行き来も便利だ。
(下)丘の上のお屋敷町。町全体にそんな雰囲気が漂う。近代になって計画的に造られた町であるため、道幅は広めで一方通行の道路はほとんどない。車での行き来も便利だ。