
グラン・ソヌリの製作は年に3本が限界。その他のモデルも年間850本が適正だという。人の手は生産本数を増やすよりも、より複雑になる工程に注入されるのだ。

一瞬の時、永遠の時
Photo TONY TANIUCHI Masahiro Goda(P3-P6) Text Junko Chiba
時計づくりに魅せられて東京・南青山にF.P.ジュルヌ初の直営店がオープンしたのは2003年のこと。「真のラグジュアリーであるために、ブティックの環境も美しく静謐でなければならない」とするフランソワ‐ポール・ジュルヌ氏にとって、根津美術館に近いこの地は理想的な場所だったという。
12年を経た今、ジュルヌ氏は何を思うのか。
ひとえに時計づくりに魅せられて歩み続ける氏の哲学と情熱に迫った。
12年を経た今、ジュルヌ氏は何を思うのか。
ひとえに時計づくりに魅せられて歩み続ける氏の哲学と情熱に迫った。
「Invenit et Fecit」―F.P.ジュルヌの時計にはすべて、ラテン語で「発明し、製作した」を意味するこの文字が刻まれている。常に未知の機構に挑み、オリジナルを開発したことに対する自信と誇りの表明だ。
大半のブランドが巨大コングロマリットの傘下にある現在の時計業界にあって、ジュルヌのように独立性を保っているブランドは極めて少ない。「天才時計師」の名をほしいままにしてきたフランソワ-ポール・ジュルヌ氏に、これまでいくつもの資本提携が打診されてきたことは想像に難くない。 それでも氏がその種の投資話に一切耳を貸さなかったのはなぜか。理由は明快だ。
「経営者である前に、自分のつくりたい時計だけをつくる時計師でありたい。他の資本に邪魔されずに自分のクリエーションを自由に追い求めたい」ただその一念である。
25歳の時に初めての作品としてトゥールビヨンを完成させて以来、ジュルヌ氏の時計づくりにかけるその思いは微動だにしない。今までにない機構の時計を発明・製作することに全力を出し切っているのだ。
「ジュネーブで初めてあなたの雑誌の取材を受けたのは、1999年に会社を立ち上げて間もない頃でした。『時計づくりと同じように会社をつくっていきます』と話したのを覚えています。その通りに進んでいます」とジュルヌ氏。「最初のムーブメントを自分自身の手で組み立てて検証。そうしてできた新しいムーブメントをシリーズ化した製品にするのがスタッフの仕事」だとする氏は、「すべてを自分でコントロールする」ことに徹している。時計師としてのピュアな血液を時計にもブティックにもマニュファクチュールにも注ぎ続け、ベストな循環をつくってきた。足元を固めながら、視線は近未来を見据えている―そんな印象のある氏は、なぜパリよりも先に東京に店を開いたのか。
大半のブランドが巨大コングロマリットの傘下にある現在の時計業界にあって、ジュルヌのように独立性を保っているブランドは極めて少ない。「天才時計師」の名をほしいままにしてきたフランソワ-ポール・ジュルヌ氏に、これまでいくつもの資本提携が打診されてきたことは想像に難くない。 それでも氏がその種の投資話に一切耳を貸さなかったのはなぜか。理由は明快だ。
「経営者である前に、自分のつくりたい時計だけをつくる時計師でありたい。他の資本に邪魔されずに自分のクリエーションを自由に追い求めたい」ただその一念である。
25歳の時に初めての作品としてトゥールビヨンを完成させて以来、ジュルヌ氏の時計づくりにかけるその思いは微動だにしない。今までにない機構の時計を発明・製作することに全力を出し切っているのだ。
「ジュネーブで初めてあなたの雑誌の取材を受けたのは、1999年に会社を立ち上げて間もない頃でした。『時計づくりと同じように会社をつくっていきます』と話したのを覚えています。その通りに進んでいます」とジュルヌ氏。「最初のムーブメントを自分自身の手で組み立てて検証。そうしてできた新しいムーブメントをシリーズ化した製品にするのがスタッフの仕事」だとする氏は、「すべてを自分でコントロールする」ことに徹している。時計師としてのピュアな血液を時計にもブティックにもマニュファクチュールにも注ぎ続け、ベストな循環をつくってきた。足元を固めながら、視線は近未来を見据えている―そんな印象のある氏は、なぜパリよりも先に東京に店を開いたのか。