また特筆すべきは、啄木が教壇に立った時期と前後して、弥生尋常小学校には後に異彩を放つ作家となった3人が学んでいたことだ。『丹下左膳』で有名な長谷川海太郎、『鈴木主水』で直木賞を受賞した久生十蘭、雑誌『新青年』の編集長を務める傍ら探偵小説や時代小説を手がけた水谷準である。外国人が雑居し異文化の薫る元町に生まれ、坂道や教会を遊び場に育った彼らは、自ら反骨精神あふれる「不良(モダン)」を任じ、自由に精力的に筆を走らせた。彼らの後輩、評論家の亀井勝一郎も含めて、同じ時期に同じ地域でこれだけの個性的な作家が生まれた例はない。それも函館で紡がれてきた「青春の遺伝子」のたまものと言えよう。


(上)世界屈指とたたえられる函館山の夜景。函館山から、両側を海に囲まれて細くくびれた陸地に、町の明かりが無数の星のようにきらめく様が眺望できる。
(下)
五稜郭を設計したのは、西欧の学問や技術を研究する「函館諸術調所」の教授・武田斐三郎。伊予大洲藩出身の英才だ。星形の要塞が、土方ら旧幕府脱走軍の青春の終焉地になった。
(下)
五稜郭を設計したのは、西欧の学問や技術を研究する「函館諸術調所」の教授・武田斐三郎。伊予大洲藩出身の英才だ。星形の要塞が、土方ら旧幕府脱走軍の青春の終焉地になった。