(左)黒いシャツに黒いジャケット、真っ赤なネクタイは関社長のトレードマーク。サペリの一枚板テーブルの脇に立ち、「家に受け継がれる宝ですよ、これは」とほほえむ。一枚板は長い期間を経てリメークしたり、再び材木として活用したりすることが可能なのだ。(右上)玉切りを経た丸太は、次に木の表面に付いた異物を取り除く「皮むき」が施される。(右下)一枚板が完成するまでは短くても2年、長いものでは5年以上掛かる。まず丸太の段階で時間を掛けて天日乾燥させると、製品になってからも板が反ったり割れたりしにくいという。
火の玉のように生きる
そして第二次世界大戦後、大川に空前の木工ブームが訪れた。戦災復興や炭鉱住宅などによる需要が拡大し、1949年には重要木工集団地に指定されるなど、現在の産業基盤が確立された。さらに高度経済成長の波に乗って、日本一の家具の産地へと成長していく。関文彦氏が裸一貫で家具の卸売業に乗り出したのはこの頃、68年のことである。
「ノコ屑くずにカンナ屑、木の香りの中で育ちました。父が木工業を営んでいたのでね。高校を卒業すると叔父の営む家具の小売店で働きました。ここで7年間、お客さんと顔を合わせて売るという商売の原点を学び、理論武装もせねばと福岡大学商学部の二部に入学し、仕事と学業と二足の草鞋でがんばって。卒業と同時にトラック一台で起業したのです」
大川に生まれ育った関社長は、まさに家具の申し子。「火の玉のように生きる」をモットーに、創業当初から新しい商売のスタイルに挑んできた。スタートは今で言うOEM。自分でマーケットリサーチをし、“強い商品"を企画して、それを工場で製造してもらって、どこよりも安く小売店に卸すという形での卸売業だ。
「ノコ屑くずにカンナ屑、木の香りの中で育ちました。父が木工業を営んでいたのでね。高校を卒業すると叔父の営む家具の小売店で働きました。ここで7年間、お客さんと顔を合わせて売るという商売の原点を学び、理論武装もせねばと福岡大学商学部の二部に入学し、仕事と学業と二足の草鞋でがんばって。卒業と同時にトラック一台で起業したのです」
大川に生まれ育った関社長は、まさに家具の申し子。「火の玉のように生きる」をモットーに、創業当初から新しい商売のスタイルに挑んできた。スタートは今で言うOEM。自分でマーケットリサーチをし、“強い商品"を企画して、それを工場で製造してもらって、どこよりも安く小売店に卸すという形での卸売業だ。
