
倉稲魂命(うかのみたまのみこと〉を主祭神とする福徳神社。平安時代にはすでにこの地に鎮座していたといわれる。隣には福徳の森がつくられており、都心のオアシス的な役割を果たしている。由緒ある神社の鳥居とコレド室町2、そしてスカンジナビアン・デザインのボルボV60は違和感なく、しっくりとなじむ。
この日本橋室町の都市再生計画で見事“復活"を果たしたのが福徳神社だ。由緒によるとこの神社は、貞観年間(859~876年)にはこの地に鎮座していたという。徳川家康を始め、歴代将軍からも厚く崇敬され、縁起のいい名前も相まって江戸時代には氏子である瀬戸物町や伊勢町の商人から絶大な信仰を集めた。ただ戦後の都市化の中で、神社の敷地が縮小され、ビルの屋上や一時は居酒屋の店内に神殿を構えていた時期もあった。
江戸時代、この福徳神社の南側の通りは浮世小路(うきよしょうじ)と呼ばれていた。“小路"と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄、喜多村家の出身地、加賀の方言で発音されたからだ。そして、この浮世小路の東端北側には、古典落語の舞台となっている料亭「百川(ももかわ)」があった。落語「百川」は、主に東京で広く演じられ、六代目三遊亭圓生、十代目柳家小三治など多くの落語家が高座にかけた。料亭「百川」は、江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した際には、乗組員全員に本膳をすべて自前で提供したという粋な料亭。ただ、明治の初めに忽然(こつぜん)と消え去り、謎に包まれた料亭でもある。
江戸時代、この福徳神社の南側の通りは浮世小路(うきよしょうじ)と呼ばれていた。“小路"と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄、喜多村家の出身地、加賀の方言で発音されたからだ。そして、この浮世小路の東端北側には、古典落語の舞台となっている料亭「百川(ももかわ)」があった。落語「百川」は、主に東京で広く演じられ、六代目三遊亭圓生、十代目柳家小三治など多くの落語家が高座にかけた。料亭「百川」は、江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した際には、乗組員全員に本膳をすべて自前で提供したという粋な料亭。ただ、明治の初めに忽然(こつぜん)と消え去り、謎に包まれた料亭でもある。