
縁側がある日本の典型的なかやぶきの「無藝荘」。この客間から庭を眺めると、自然と心が落ち着く。小津や野田がここの縁側に座り、和やかな雰囲気でくつろぐ写真も残っている。

蓼科・小津安二郎の散歩道
Photo Masahiro Goda Text Nile’s NILE
佳き哉蓼科、楽しき哉蓼科
世界中から今なお高い評価を受ける日本映画界の巨匠・小津安二郎。彼が晩年、仕事場としていたのが蓼科(たてしな)である。
1954(昭和29)年8月18日、脚本家であり盟友の野田高梧の別荘「雲呼荘」を初めて訪れた小津は、たちまちこの地に魅せられた。このとき、山荘に備えてあったノートに「終点大いに賑ひ、始めての蓼科高原の騒然たるに驚く。夕食ののち いささか雨気、雲低く寝待月出でゝ遠望模糊、まことに、佳境、連日の俗腸を洗ふ」とペンを走らせるが、このノートこそ、のちに野田が亡くなる1968年までのこの地での両者の生活が詳細につづられた「蓼科日記」となる。
この日記に何度も出てくる言葉が“散歩"。ある日は次作の構想を練りながら、ある日は小津と野田の二人で、ある日は映画関係者らとともに――。日に何度となく山荘周辺の疎林を散策した。散歩中、顔見知りの人と会えば気さくに立ち話をしていたという。日本映画界の重鎮であった小津にとって、ありのままの姿で心穏やかに過ごせる大切な場所。「厳しい監督」で知られる小津も、蓼科では常に柔和な表情をしていたようだ。
1954(昭和29)年8月18日、脚本家であり盟友の野田高梧の別荘「雲呼荘」を初めて訪れた小津は、たちまちこの地に魅せられた。このとき、山荘に備えてあったノートに「終点大いに賑ひ、始めての蓼科高原の騒然たるに驚く。夕食ののち いささか雨気、雲低く寝待月出でゝ遠望模糊、まことに、佳境、連日の俗腸を洗ふ」とペンを走らせるが、このノートこそ、のちに野田が亡くなる1968年までのこの地での両者の生活が詳細につづられた「蓼科日記」となる。
この日記に何度も出てくる言葉が“散歩"。ある日は次作の構想を練りながら、ある日は小津と野田の二人で、ある日は映画関係者らとともに――。日に何度となく山荘周辺の疎林を散策した。散歩中、顔見知りの人と会えば気さくに立ち話をしていたという。日本映画界の重鎮であった小津にとって、ありのままの姿で心穏やかに過ごせる大切な場所。「厳しい監督」で知られる小津も、蓼科では常に柔和な表情をしていたようだ。