
曲線を多用したオブジェのような造形美を放つ、国立代々木競技場第一体育館。2本の主柱と2本のメーンワイヤーロープによって全体の屋根が吊り下げられており、内部は半円を少しずらして向かい合わせたような形になっている。緩やかな曲線のシルエットが近未来的な空間を作り出している。
オリンピックはもうかる
しかし、当時の東京では、大量輸送機関、宿舎、多国籍言語への対応、そして競技場など、対応しなくてはならない問題が山積していた。
結局、当時の陸軍は開催に反対。加えて、日本と中国の間で37年に戦端が開かれ、日本軍が南京を占領したことを、とりわけ米英が問題視したこともあり、オリンピック委員会から、開催辞退を勧告され、それを受け入れたのだった。
「ベルリン大会のすごさを見た日本人関係者はだれもが、あれと同じものができるだろうかと不安に思っていた。幸か不幸か日中戦争の激化によって、彼らの不安は解消されたことになる」と、近代史における日本外交についての著書が多い波多野勝は『東京オリンピックへの遥かな道』で指摘している。
それだけに、戦後の復興がひと区切りつき、さらなる飛躍をと考えた50年に、東京オリンピックへの構想は、以前より大きなスケールで考えられた。
「衣食住にもこと欠くいまの日本で、多額の経費のかかるオリンピックをやろうと言っても、国民に相手にされないどころか、かえって逆効果になってオリンピックそのものまで否定さることをおそれているのでしょう。だが、私は自分の経験にもとづいてはっきり言えますが、それは違う。オリンピックは金儲けになるのです」
波多野勝は同著で、52年のヘルシンキ大会で責任者を務めたエリック・フランケルが、東京の関係者に語ったという言葉を紹介している。
東京が注目したのは、インフラストラクチャーの整備だった。それは町の美化といわれ、道路を拡張し、木造住宅を取り壊し、殺鼠剤を各戸に配り、そしてベルリン大会時に造られた巨大なオリンピアシュタディオンと比肩するようなスポーツ施設の建設へと向かった。
招致に失敗したが2016年の開催へ向けて、かつて東京都は有明の埋め立てなど、面で拡張していく考えを採用した。かつて東京の「地ならし」をした高度成長期と同様の発想だ。日本橋で生まれ育ち、東京を愛する作家、小林信彦は、東京の変貌をオリンピックの前後と位置づけた自伝的小説の傑作『夢の砦』の最終章で、「……いまの東京は、ぼくが育ってきた街とは、とうてい思えないよ」と主人公につぶやかせている。それを思い出した。
結局、当時の陸軍は開催に反対。加えて、日本と中国の間で37年に戦端が開かれ、日本軍が南京を占領したことを、とりわけ米英が問題視したこともあり、オリンピック委員会から、開催辞退を勧告され、それを受け入れたのだった。
「ベルリン大会のすごさを見た日本人関係者はだれもが、あれと同じものができるだろうかと不安に思っていた。幸か不幸か日中戦争の激化によって、彼らの不安は解消されたことになる」と、近代史における日本外交についての著書が多い波多野勝は『東京オリンピックへの遥かな道』で指摘している。
それだけに、戦後の復興がひと区切りつき、さらなる飛躍をと考えた50年に、東京オリンピックへの構想は、以前より大きなスケールで考えられた。
「衣食住にもこと欠くいまの日本で、多額の経費のかかるオリンピックをやろうと言っても、国民に相手にされないどころか、かえって逆効果になってオリンピックそのものまで否定さることをおそれているのでしょう。だが、私は自分の経験にもとづいてはっきり言えますが、それは違う。オリンピックは金儲けになるのです」
波多野勝は同著で、52年のヘルシンキ大会で責任者を務めたエリック・フランケルが、東京の関係者に語ったという言葉を紹介している。
東京が注目したのは、インフラストラクチャーの整備だった。それは町の美化といわれ、道路を拡張し、木造住宅を取り壊し、殺鼠剤を各戸に配り、そしてベルリン大会時に造られた巨大なオリンピアシュタディオンと比肩するようなスポーツ施設の建設へと向かった。
招致に失敗したが2016年の開催へ向けて、かつて東京都は有明の埋め立てなど、面で拡張していく考えを採用した。かつて東京の「地ならし」をした高度成長期と同様の発想だ。日本橋で生まれ育ち、東京を愛する作家、小林信彦は、東京の変貌をオリンピックの前後と位置づけた自伝的小説の傑作『夢の砦』の最終章で、「……いまの東京は、ぼくが育ってきた街とは、とうてい思えないよ」と主人公につぶやかせている。それを思い出した。