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 父子は協議した結果、昌幸と幸村は豊臣方、信幸は徳川方につくことを決めた。なぜ父子はたもとを分かったのか。昌幸にはかつて家康に攻められたことへの恨みがある。幸村にとって景勝は人質時代に近しかった人物で、しかも妻は秀吉側近の要人だった大谷吉継の娘だ。上杉、豊臣への義理もあろう。また信幸は家康の重臣・本多忠勝の娘を妻としており、徳川への忠心を捨てられない。こういった理由の他に真田にはもう一つ、「徳川、豊臣のどちらに転ぶかわからない情勢にあって、丁半両目に賭けて真田家の存続を図ろう」という思いもあったのではないか。
 いずれにせよ、豊臣方についた昌幸と幸村は、関ヶ原の合戦の際に中山道を西へ上る途中で上田城に攻め入った徳川秀忠軍3万8000を、わずか2500の兵で撃退した。小よく大を制した二度目の快挙である。結果的に西軍は敗れ、昌幸と幸村は高野山へ流罪の身となったが、信幸は真田の領地を継ぐことを認められ、家の存続は果たせたのだ。

(上)松代藩2代・信政の長男・信就に始まる真田の分家、真田勘解由家の武家屋敷。Audi A8はまさに殿様の車然として、お屋敷町の景観に溶け込む。
(下)8代藩主・真田幸貫が佐久間象山らの意見を受けて構想し、9代・幸教が1855(安政2)年に開校した藩校「文武学校」。文学所や槍術所、弓術所などを備える。剣術所で戸山流居合道・錬士5段の演武に遭遇した。
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