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松代城

かつて松代城は「海津城」と呼ばれ、武田氏北信濃の要の城だった。以後、城主が目まぐるしく替わったが、真田信之が入封して以降は明治まで、真田氏の統治が続いた。
幸村、北国街道を走る

 旅の足を、真田家の3代目・昌幸の次男として生まれた幸村の時代に向けてみよう。
 幸村は一時、人質として上杉景勝のもとへ送られている。これは、前述した沼田城をめぐる徳川との対立に際して、上杉と同盟を結んだことによる。景勝の養父・謙信が信濃出兵のための軍用道として整備した北国街道を北進して越後へ。上田合戦となって上田に取って返し、大勝利を収めた後に再び越後へ。さらに1587(天正15)年ごろには越後を出奔して上田に戻り、今度は天下統一を進める秀吉に出仕するために大坂城へ。幸村の流転は続いた。一方で、父・昌幸と兄・信幸は秀吉の指示により家康の家臣となっている。
 上杉と豊臣と徳川のはざまで揺れた真田家。幸村は天下取りの戦いが続く戦国の世そのままの激震に駆られるように、何度も北国街道をひた走ったのではないだろうか。
 秀吉が病没した後、天下は再び大きく揺れる。秀吉の遺子・秀頼を立てて行われた中央政治にあって、圧倒的軍事力を持つ家康がしだいに実権を握っていったのだ。これに対して、石田三成らが水面下で反徳川勢力を組織した。両者の対立が表面化したのは、1600(慶長5)年に家康が命令に従わない上杉景勝の討伐に動員令を発したことがきっかけだ。東国の多くの大名がこれに呼応し、真田父子3人も参陣して徳川軍に合流しようとしていた。が、途中の下野犬伏(栃木県佐野市)で陣をとっていた昌幸の元へ、豊臣家奉行たちから書状が届く。「秀頼をもり立てて家康を討つべく挙兵する。味方されたし」というのだ。
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