もう一つの故郷・海野宿
真田氏のルーツを訪ねるという意味ではもう一つ、忘れてはならない場所がある。海野宿だ。先に触れたように、真田氏は東信濃の名門、海野氏の流れをくむとされている。さっそく山道を下り、千曲川のほとりに開けた海野宿へ向かった。
まずは、海野氏の始祖・広道公が四柱の祭神の一人として祭られる白鳥神社へ行き、柏手を打つ。案内板を見ると、「後に海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けた」とある。樹齢700年を超える御神木のけやきを始め、境内の古木たちは皆、戦国時代の生き証人にも映る。
この鎮守に守られた海野宿は、奈良時代には海野郷と称され、早くから文化の開けたところだ。また『源平盛衰記』に、1181(治承5)年に木曽義仲が海野氏を中心に白鳥河原で挙兵し、平家討伐の旗を掲げて京都へ攻め上ったとの記述も見られる。北国街道に開設された宿駅となったのは1625(寛永2)年のことだが、繁栄の歴史は長い。
そして今、海野宿は昔ながらの街道模様を映す歴史の町並みで人気を集めている。江戸時代の旅籠屋造りやかやぶき屋根の建物、明治以降の堅牢な蚕室造りの建物、中央を流れる用水路に石橋、その両側に立ち並ぶ海野格子、卯建の上がる白壁の町屋など、伝統的な景観は、歩くほどに、眺めるほどに心沸き立つ魅力に満ちている。その町並みに、アウディ A8の姿がまたしっくりなじむ。時を超えた普遍の美が共鳴を起こすのかもしれない。
真田氏のルーツを訪ねるという意味ではもう一つ、忘れてはならない場所がある。海野宿だ。先に触れたように、真田氏は東信濃の名門、海野氏の流れをくむとされている。さっそく山道を下り、千曲川のほとりに開けた海野宿へ向かった。
まずは、海野氏の始祖・広道公が四柱の祭神の一人として祭られる白鳥神社へ行き、柏手を打つ。案内板を見ると、「後に海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けた」とある。樹齢700年を超える御神木のけやきを始め、境内の古木たちは皆、戦国時代の生き証人にも映る。
この鎮守に守られた海野宿は、奈良時代には海野郷と称され、早くから文化の開けたところだ。また『源平盛衰記』に、1181(治承5)年に木曽義仲が海野氏を中心に白鳥河原で挙兵し、平家討伐の旗を掲げて京都へ攻め上ったとの記述も見られる。北国街道に開設された宿駅となったのは1625(寛永2)年のことだが、繁栄の歴史は長い。
そして今、海野宿は昔ながらの街道模様を映す歴史の町並みで人気を集めている。江戸時代の旅籠屋造りやかやぶき屋根の建物、明治以降の堅牢な蚕室造りの建物、中央を流れる用水路に石橋、その両側に立ち並ぶ海野格子、卯建の上がる白壁の町屋など、伝統的な景観は、歩くほどに、眺めるほどに心沸き立つ魅力に満ちている。その町並みに、アウディ A8の姿がまたしっくりなじむ。時を超えた普遍の美が共鳴を起こすのかもしれない。




類焼から家を守る防火壁、卯建は富裕な家のシンボル。時代とともに装飾性が高まった。明治以降、海野は宿場時代の広い部屋を利用して養蚕・蚕種業で復興した。