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松代藩が受け継ぐ武勇

 高野山の麓、九度山に配流された昌幸と幸村のその後について、触れておかねばなるまい。昌幸は赦免・帰国の願いを果たせぬまま65歳で病没。幸村はその3年後の1614(慶長19)年、幕府に対する挙兵を決した秀頼に請われて大坂城に入った。
 籠城作戦の下、幸村は城の東南の隅に小さな砦「真田丸」を築き、6000名の手勢を率いて南方からの徳川軍の攻撃に備えた。真っ赤な軍装と幟が目立つ、いわゆる「赤備え」。徳川軍を引きつけては鉄砲を撃ちかける得意の戦法で奮戦し、ついには家康に武力で大坂城を落とすことを諦めさせたのである。
 これが冬の陣。続く夏の陣では、大坂城が天守閣だけの丸裸にされたため、やむなく野戦に突入。先陣が早々に敗れる中で、真田隊は孤軍奮闘で伊達政宗の大軍を破り、徳川軍を食い止めた。しかし、その後は奮闘むなしく、幸村はついに茶臼山の北にある安居天神で討ち取られたのだった。享年49歳。幸村の死とともに大坂城は落ちたが、その壮絶な戦いぶりは諸国で「日本一の兵」とたたえられた。後年、真田十勇士伝説を始めとする数々の物語が創作されるなど、真田人気は今なお衰えるところを知らず。幸村がまさに国民的英雄となったのは周知の通りだ。
 真田三代の軌跡に酔いしれた旅の最後に、松代城を訪ねた。ここは、家康についた信幸改め信之が1622(元和8)年に上田・沼田領から転封されて入った城である。父と弟が敵方にいたことで苦しい立場に置かれただろうが、信之は家康に忠勤し、3万石の加増で川中島一帯を領有するという“栄転"を成し遂げた。そして、後に信濃を代表する雄藩となった松代藩の基礎を築いたのだ。
 2004(平成16)年までの整備事業で櫓門や土塁、堀が復元された松代城に立つと、真田三代の武勇が走馬灯のごとく浮かんでくる。北国街道の松代宿は武門としての真田家の栄光を今に伝える「真田十万石の城下町」として、今も輝いている。
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