
三川内皿山地区には、窯元がたくさんあるだけではなく、古くから使われてきた煙突もまたそこかしこに残っている。こうした風情ある景色が「窯の郷」であることを教えてくれる。
三川内焼の系譜
三川内焼の歴史は豊臣秀吉の時代にさかのぼる。町の運命を決したのは朝鮮出兵だ。この時、朝鮮から多くの陶工たちが日本の地に連れて来られた、それが始まりである。彼らの中でも三川内焼にとって重要な役割を任じた人物が二人いる。一人は朝鮮陶工だった高麗媼(こうらいばば)である。唐津の椎(しい)ノ峰で焼き物を作っていた高麗媼は、夫の死後、三川内へ移住。長葉山(ながはやま)で窯を開いたと伝えられる。現在、三川内焼の陶祖の一人として、釜山神社に祀(まつ)られている高麗媼の血脈は、今の窯元に受け継がれている。その一つが平戸洸祥団右ヱ門(こうしょうだんうえもん)窯だ。当主の中里太陽氏は高麗媼の子どもたちの世代から数えて18代目だが、窯元として独立したのは明治以降のことだ。
「江戸時代は、窯は平戸藩のもの。どの家も窯を持たず、当主も含めた家族のみんなが焼き物の産業に携わって、さまざまな技術を磨き、守ってきた」そうだ。高麗媼の系譜が三川内焼という地域の伝統産業を形成したのである。今も窯元だけではなく、分業制の下、多くの家が得意の技術を継承している。
「江戸時代は、窯は平戸藩のもの。どの家も窯を持たず、当主も含めた家族のみんなが焼き物の産業に携わって、さまざまな技術を磨き、守ってきた」そうだ。高麗媼の系譜が三川内焼という地域の伝統産業を形成したのである。今も窯元だけではなく、分業制の下、多くの家が得意の技術を継承している。

三川内皿山の氏神である天満宮の境内には、三川内地区で焼き物を始めた中里家の始祖、高麗媼(中里エイ)を祀る釜山神社が併設されている。高麗媼は1672(寛文12)年に100歳の天寿を全うしたという。
平戸藩の藩窯として発展
もう一人の重要人物は、平戸藩初代藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)が朝鮮から連れ帰ったとされる巨関(こせき)である。彼は当初、平戸島の中野で窯を開いたが、息子の今村三之丞(さんのじょう)とともに良い陶石を求めて、三川内にたどり着いた。しかし三之丞は飽き足らない。「もっと良いものを焼きたい」という強い思いから、さらに唐津の椎ノ峰、波佐見の三股(みつのまた)、有田の南川原を渡り歩き、修業・研究に励んだという。
そのかいあって、三之丞は平戸藩主から「三川内に藩窯を開く」ことを任命された。そして、椎ノ峰で出会った絵師など多くの優れた技術者を三川内に呼び寄せ、藩窯の体制を整えた。一方で藩領内に流通していた天草の砥石が良質な陶石として転用できることを発見し、職人たちは技術を磨く中で、青藍染付や細工物などの名品を次々と創作。江戸幕府への献上品を製作するなど、藩窯としての名を上げていったのだ。
加えて時代が進むにつれ、販路を海外に拡大。19世紀には薄手のコーヒー茶碗を開発し、欧州の王侯貴族に愛される逸品となった。うち数十点が大英博物館などに収蔵されている。
そのかいあって、三之丞は平戸藩主から「三川内に藩窯を開く」ことを任命された。そして、椎ノ峰で出会った絵師など多くの優れた技術者を三川内に呼び寄せ、藩窯の体制を整えた。一方で藩領内に流通していた天草の砥石が良質な陶石として転用できることを発見し、職人たちは技術を磨く中で、青藍染付や細工物などの名品を次々と創作。江戸幕府への献上品を製作するなど、藩窯としての名を上げていったのだ。
加えて時代が進むにつれ、販路を海外に拡大。19世紀には薄手のコーヒー茶碗を開発し、欧州の王侯貴族に愛される逸品となった。うち数十点が大英博物館などに収蔵されている。