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Photo Masahiro Goda
Text Ayuko Miura
吉田璋也と民藝運動――宿る美
鳥取駅から歩いて5分ほど。商店が立ち並び車の行き交う大通り沿いに突然、趣のある建物が現れる。ここは国内外の民藝品を展示する「鳥取民藝美術館」だ。白壁に茶色の津ノ井瓦をふいた建物は、昔の衣装蔵を改築したものだという。繁華街の近代的な風景の中、「民藝コーナー」と呼ばれるこの一角は街の中でも独特の風格をまとう。この鳥取民藝美術館を開設したのは、地元出身の民藝運動家であり、鳥取の民藝を支え世間に広めた吉田璋也(しょうや)である。
 1898(明治31)年、鳥取市で医師吉田久治のもとに生まれた璋也。自身も医師を志し、1917(大正6)年に新潟医学専門学校(現・新潟大学医学部)に進学する。在学中に白樺派(しらかばは)の文化活動に共感した彼は、勉学に励む傍ら雑誌「アダム」を創刊。白樺派の面々とも実際に交流を持ち、民藝運動の父と呼ばれる柳宗悦(やなぎむねよし)との出会いを果たした。
 民藝運動とは、1926(大正15)年に柳宗悦らによって提唱された生活文化運動のこと。庶民が日常的に使用する生活用品を民衆的工芸つまり「民藝」と名付け、民藝品にこそ本質的な美が備わっていると呼びかけた。柳宗悦は、民藝品をこのように定義している。「一、実用性 二、無銘性 三、複数性 四、廉価性五、労働性 六、地方性 七、分業性 八、伝統性 九、他力性」。つまり鑑賞用に作られた豪華できらびやかな作家の作品ではなく、一般庶民の普段使いの品々の健康美を指摘し、そこに美術品に負けない美しさがあると柳宗悦は説いた。
 吉田璋也の歩みに戻ろう。柳宗悦の民藝運動に共鳴した吉田だが、民藝運動家として本格的な活動をスタートさせたのは1931(昭和6)年、鳥取に帰郷し医師として耳鼻咽喉科医院を開業した後のことである。活動のきっかけは、町の陶器屋で見つけたとある五郎八茶碗(ごろはちぢゃわん)。その素朴でどっしりとした風合いに心引かれた吉田は、すぐに窯のある牛ノ戸の寒村を訪ねる。そしてそこで、昔ながらの材料や手法を守りつつ、現代の生活に合った日常の食器を製作させる取り組みをスタートさせた。自らが考えたデザインを作らせることが多かった。今でいう、デザイナーと作り手との“コラボ"の先駆けである。このように始まった吉田の活動は、焼き物にとどまらず染織、木工、金工、竹工、和紙と、あらゆる分野に広がっていく。例えば染織では、織物の得意な老婆を1年間ほど自分の家に雇い、地元の染物屋が染めた糸を使って帯や小物などを織らせた。そしてその老婆が織りや柄の知識を習得した頃に、村へ帰してリーダー役に据え、村の女性たちへ技術を伝えさせたという。吉田の取り組みは民藝品の復興にとどまらず、鳥取に新しい産業を生み出すまでに広がっていった。
 鳥取ならではの環境も、活動の一助となった。豊かな自然に恵まれ、土や木材、綿などの材料がふんだんだったこと。また江戸時代、池田光政・光仲公の国替えにより姫路や岡山から御用職人が移り住み、優れた技術が後世へと受け継がれていたこと。こういった鳥取の成り立ちが、吉田の民藝運動をさらに発展させていった。
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