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仁風閣― 片山東熊の世界
鳥取といえば砂丘のほかに、豊臣秀吉の兵糧攻めで有名な鳥取城跡がある。鳥取城は、久松山(きゅうしょうざん)の急峻な地形を生かした、織田信長に「堅固な名城」と言わしめた城だった。中国攻めに赴いた秀吉の2度目の城攻めの際、籠城した毛利方の吉川経家(きっかわつねいえ)に対し、秀吉軍が圧倒的な兵力で包囲して、ついに経家の自刃と開城を導いた。その後、江戸時代には、徳川家康を曽祖父に持つ、池田光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、鳥取城は国内有数の大藩の政庁として存続。しかし、明治時代に陸軍省の所管となった後、払い下げられ破却された。大正時代には鳥取池田家によって、城跡に久松公園が整備された。公園を設計したのは、東京・明治神宮外苑の設計者でもある、折下吉延(おりしもよしのぶ)であった。
 堀の外側から眺めると、城の石垣の合間に、白亜の瀟洒な洋館がぽっかりと浮き上がり、異彩を放っている。鳥取観光の名所であり、重要文化財である仁風閣(じんぷうかく)だ。鳥取城跡に立つこの洋館は、1907(明治40)年、当時の嘉仁(よしひと)皇太子殿下(後の大正天皇)の鳥取行啓に際し、皇太子の宿舎として建てられた別荘であるという。施主は徳川慶喜の五男で、池田家の養子となった池田仲なか博ひろ侯爵。設計は、赤坂離宮などを手がけて「宮廷建築家」と称された、当代一流の建築家、片山東熊(かたやまとうくま)博士だ。ちなみに、仁風閣の名づけ親は皇太子に随行した東郷平八郎だといわれ、今も館内に東郷による直筆の額が残る。そのいわれに有名人が名を連ねるこの建築物は、皇太子の行啓に間に合わせるため、着工からわずか8カ月で完成された。建築費用は4万4000円。当時の鳥取市役所の年間予算が5万円だったというから、力の入れようがうかがえる。
 しかし、仁風閣が皇太子の御座所となったのはわずか数日間であり、その後、池田家の別荘として使われた期間も短い。大正期には市の公会堂や県の迎賓館として使用され、昭和の24年間は県立科学博物館として使われていた。その間、建物の老朽化を理由に廃棄されそうになったこともあったが、そのたびに市民による熱心な保護運動が行われている。そして博物館の新築に伴い、県から譲渡された鳥取市が大規模な修理復元を行い、現在に至る。
 保存運動に尽力した一人が、柳宗悦(やなぎむねよし)とともに民藝運動にいそしんだ鳥取出身の吉田璋也(しょうや)である。吉田は仁風閣が全国でも有数の建築的価値を持つとし、次のように述べている。
「仁風閣は、さいわいにも現在なお外貌はそこなわれてはいません。屋根などはこわれていますが、遠くからながめても品格は高く、立派であります。また正面玄関に近寄って仰ぎ見るとき、二階の窓の線を追ってながめるとき、その美しさはいっそうよく理解出来ると思います。威厳のある均等の美しさを認めないわけにはいかないでしょう。裏庭に回ってみても、その露台や西側の塔の姿も、私の目にはなかなか好ましくうつる端麗な風景の一つであります」(『吉田璋也の世界』より)
 門を入って砂利道を歩き、目隠しに植えられた松の木の間から外観を仰ぎ見る。堂々とした建築はいかにも洗練されていて、瓦屋根にはルネサンス様式に多いクラウン(王冠)型の棟飾りが施されている。外観に個性をもたせているのが、六つの煙突と円形の換気窓。正面右側には特徴的な角尖型の塔があり、これは階段室となっている。 
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