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赤い山門が印象的な海蔵寺
今度は、青山通りから神宮方面へ外苑西通りを進む。家具屋が多いこの通りで目を引くのが、赤い山門の海蔵寺。近江彦根藩の井伊家の掃雲院(藩主直孝の長女亀姫)が海蔵庵として、1671(寛文11)年に創建した。
 さらにそのまま進んで神宮前三丁目の交差点を東に行くと、熊野神社と高徳寺がある。
 熊野神社は、徳川頼宣邸内(現・赤坂御所)に奉斎されていたものを、1644(正保元)年にこの地に遷座して創建、青山の鎮守とした。

葵の紋の高徳寺
 青山熊野神社から程近い高徳寺も、その広さからかおだやかで牧歌的な雰囲気が漂う。
 高徳寺は、徳川家康が江戸に呼び寄せたという甲賀武士の遠藤宗家が菩提寺として1579(天正7)年に創建。遠藤宗家は多くの甲賀武士とともに甲賀組を組織し、江戸城の本丸と大手三門の警備にあたった。この高徳寺には、松江藩の初代藩主、松平直政の側室の墓所のほか、松平家代々の墓がある。

 現在の東京は、縄文時代には山の手の台地の奥深くまで、海が入り込んでいた。そして人が住み始めるとその高台に神仏を祀(まつ)る場所を作った。その地を中心に人々は生活し、その人々の職業によって周辺はさまざまに発展してきたといえよう。
 それは、地形や住む人々、街が大きく変化したとしても、忘れられない土地の記憶としてずっと残り続け、直接的な影響を受けているのかもしれない。
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