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青山界隈のアースダイビングの起点、青山通り
もともと「青山」という地名は、この辺りに美濃郡上藩の青山家の屋敷があったことにちなむ。青山家宗家の初代、青山忠成は、徳川家康が江戸城に移封された1590(天正18)年に、江戸町奉行に任命され、江戸城の本丸と大手三門を警備していた甲賀百人武士である与力(甲賀組)や同心を預けられた。その時に、この辺りの土地を広く拝領し、自らの屋敷を建てたほか、下級武士の組屋敷を整備し、青山に住まわせたという。

青山百人町の善光寺
 こうした下級武士が住んだのは、現在の表参道交差点の程近く、善光寺(信州善光寺の東京別院)の辺りである。幕末の「江戸切絵図」には、「百人町ト云」とあり、そこが江戸城の本丸と大手三門を警備した鉄砲隊や百人組の組屋敷だったことがわかる。さらに、この切絵には現在の青山通りが、江戸時代に大流行した大山詣の際に通る「大山街道」の一部として描かれている。
 信州の別院としてある青山の善光寺は、善光寺第109世が徳川家康に請願し、谷中に7500坪の土地を寄付されて建立した。しかし、1703(元禄16)年の大火により焼失。1915(大正4)年に再建されたもので、本堂の前にある線香立てに葵(あおい)の紋が付いていることから、徳川家との強いつながりと歴史を感じずにはいられない。

青山家の菩提寺、梅窓院
 青山通りから孟宗竹の参道を抜けると、梅窓院がある。そこには、街の喧騒を忘れさせてくれる静寂の世界が広がる。地下鉄銀座線の外苑駅前から徒歩1分もかからない場所だとは思えない。
 梅窓院は、1643(寛永20)年に徳川家康以来の家臣であった、老中、青山幸成が死去した際、 その下屋敷内の1万3247坪の土地に建立した(現在の梅窓院は3000余坪)。

 その後、青山の寺らしく、時代の先端をゆくような建築でも注目を集めてきた。1925(大正14)年から2001(平成13)年まで使用されていた本堂は、塔をたずさえた和洋折衷様式の鉄筋コンクリート造り。屋根や格子といった日本の伝統的モチーフを、現代の技術でシンプルに磨き上げ、寺の持っている「静寂」を建築として移し替えたという隈氏が設計した梅窓院は、建築の分野でも前衛的な青山にあって、この街らしい寺だといえるだろう。
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