渋谷であることを忘れる、渋谷最古の神社
金王八幡宮から清閑な住宅街をゆるやかに下っていくと、常盤松小学校に出る。そして高台に位置する國學院大学の方向にあるのが氷川神社だ。
古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村(渋谷区南端一帯)の総鎮守であった。約4000坪ある境内には、江戸郊外三大相撲の一つ、金王相撲の相撲場跡があるほか、大木が立ち並び、渋谷であることを瞬時に忘れさせるほど、豊かな自然に囲まれている。
その商店街を抜けると、渋谷川沿いの明治通りに突き当たる。
その穏田村の産土神だったのが穏田神社だ。1591(天正19)年に徳川家康から伊賀衆が穏田の地を賜った。以後、第六天社と称し明治維新の際に穏田神社と改称。この地が田園地帯だったころから若者の街になった今でも、変わらずに穏田神社は、地域の鎮守として在り続けている。
そして、穏田神社から細い路地を東へと上っていけば、高台の青山通りにたどり着く。
古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村(渋谷区南端一帯)の総鎮守であった。約4000坪ある境内には、江戸郊外三大相撲の一つ、金王相撲の相撲場跡があるほか、大木が立ち並び、渋谷であることを瞬時に忘れさせるほど、豊かな自然に囲まれている。
その商店街を抜けると、渋谷川沿いの明治通りに突き当たる。
裏原にある穏田神社
高低差がない平らな明治通りを原宿方面へ進み、渋谷駅を過ぎると、渋谷川が暗渠となって見えなくなる。1964(昭和39)年の東京オリンピックの時に、渋谷川を暗渠にして造った遊歩道である。江戸時代、この辺りは穏田という地名で、中央を流れる渋谷川(穏田川)には水車がかけられた田園地帯だった。葛飾北斎の浮世絵シリーズ「冨嶽三十六景」の一つ「穏田の水車」に描かれていることでも知られている。その穏田村の産土神だったのが穏田神社だ。1591(天正19)年に徳川家康から伊賀衆が穏田の地を賜った。以後、第六天社と称し明治維新の際に穏田神社と改称。この地が田園地帯だったころから若者の街になった今でも、変わらずに穏田神社は、地域の鎮守として在り続けている。
そして、穏田神社から細い路地を東へと上っていけば、高台の青山通りにたどり着く。

