
前室・中室・玄室の3室と羨道(えんどう)からなる長さ約17mの石室を持つ鬼の窟古墳。江戸時代の書物『壱岐名勝図誌』に見物客がたくさん訪れるという記録があり、当時から人気の観光スポットだった。
ちなみに壱岐の古墳は、その多くが6世紀後半から7世紀初めに造られ、長崎県内で確認されている古墳の数の約6割(280基)に当たる。昔の人たちは、大きな岩で組まれた石室の上に土を盛って造った“古墳"を見て「人間の手によるものではなく、きっと鬼が造った住みかに違いない」と、古墳を「鬼の窟(いわや)(岩屋)」「鬼屋」などと呼んでいた。
もう一つ、壱岐には「その昔、島に5万匹の鬼が住んでおり、豊後国(現・大分県)から派遣された百合若(ゆりわか)大臣という名の若武者が全ての鬼を退治した」という“鬼ヶ島伝説"が語り継がれている。数多くの古墳こそが“鬼伝説"を生み出す一つの要因になっているのだ。
実際に、鬼の窟古墳という名の島内で2番目に大きい円墳がある。標高100mほどの丘陵尾根部に築造された石室の全長は16・5mと島内最大を誇り、中に入ることができる。
もう一つ、壱岐には「その昔、島に5万匹の鬼が住んでおり、豊後国(現・大分県)から派遣された百合若(ゆりわか)大臣という名の若武者が全ての鬼を退治した」という“鬼ヶ島伝説"が語り継がれている。数多くの古墳こそが“鬼伝説"を生み出す一つの要因になっているのだ。
実際に、鬼の窟古墳という名の島内で2番目に大きい円墳がある。標高100mほどの丘陵尾根部に築造された石室の全長は16・5mと島内最大を誇り、中に入ることができる。